『行き止まりの世界に生まれて』イマジネーションで虹をかける

原題は「minding the gap」( 段差を意識しろ)スケボーをやっているときに段差(ギャップ)に気をつけないと転んでしまう。普通に歩いている時も「段差に気をつけて!」と使われる言葉だ。

『行き止まりの世界に生まれて』(2018) は1989年生まれのビン・リュー監督のドキュメンタリー作品。米イリノイ州ロックフォードで過ごしたスケートボード仲間たちとの一時期を数年間にわたって撮影した膨大なフィルムからこの作品を作り出した。

 物語の主人公であるビンは幼少時に継父から受けた凄惨な暴力、そしてそれを見てみぬふりをしていた母へのどうしようもない怒りを心の奥に抱えていた。
 同じ年に作られたジョナ・ヒルの『mid90s ミッドナインティーズ』では分からなかったある疑問。なぜそのような悲惨な境遇にある若者がスケートボードという文化に救われるのか?それが『行き止まりの世界に生まれて』で明らかになった。
 
 この物語(ドキュメンタリー作品であるがあえて物語とする)の主人公の一人でもあり、撮影者、作品の編集者・監督でもあるビン・リュー。彼がインタヴューで語っているのは、傷つき、自己にも他者にも破壊的な感情を抑えられなくなってしまった時、スケートボードをすることでその感情を癒すことができるということだ。

「スケートボードをするときには全身全霊で意識を集中させなければコケてしまう。」

 破壊的な衝動はスケボーでハードなプレイを行うことによって昇華できるという。悲惨な環境に持っていかれそうな自分の意識を、段差(ギャップ)に集中することで、悪夢から逃れる方法がスケボーをすることなのだ。
無論その方法はスケボーに限られることではなく、その人の置かれている状況によって千差万別だ。全ての追っ手から逃れて自分自身でいられる聖域が、彼にとってはスケートボードを介するコミュニティだった。

「スケボーは動く瞑想のようなもの」とビン・リューは言う。
それは肉体から感情というクラウドを引き剥がす行為でもある。
設定するギャップは細かく精緻なものから大胆に切り立ったものまで多岐にわたっている方が良い。細部の感覚を使ってそれらに意識を向けていくうちに、いつの間にか虹のかかった場所にでている。主人公たちがスケボーで滑走するシーンにはそんな奇跡のような美しさが写っている。そしてこの映像がドキュメンタリー作品であるということの奇跡もそれ故である。

連鎖する暴力

 三人の主人公のうち、ザックは仲間内のリーダー。男らしく、憧れられる存在だが恋人のニナに暴力を振るっている。

 黒人のキアーは柔和な青年だが時々怒りに任せてスケートボードを破壊する一面がある。幼少時、父親に暴力を振るわれていたが、大人になるにつれてそれが白人社会で生き抜くための父の愛ゆえの行為であったことに気づいていく。

 ザックの恋人ニナは暴力を振るわれながらもザックからの愛を期待してしまい、ザックと対決することから逃げてしまう。

 作品はこの三人の数年間を、撮影者であるビンが追うかたちで進んでいく。やがて、母の見えないところで凄惨な暴力を振るっていたビンの継父、暴力を受け続け、誰にも助けてもらえなかった自分(ビン)自身、暴力の連鎖を断ち切ることのできる存在であったにもかかわらず、それをしなかったビンの母親の姿がこの三人のキャラクターと重なりあらわになっていく。

 自身も暴力を受けながらビンの母親は父親を庇う。「あの人が本当にひどい人だとは思えない。」継父から暴力を受け、本来自分を救ってくれるはずの母親からも見放され、ビンは自分というものが分からなくなっていく。母親はかたちだけだとしても夢見た家庭を失いたくない、孤独になりたくない。その気持ちをくむとビンはさらに何も言えなくなる。母親は子供を連れて家を出るほど強くない。ザックの恋人ニナも同様だ。

 ザックは子育てやニナとの関係から、撮影者としてのビンの視線からも逃げ続ける。しかしザックにも暴力を日常的に受けていた過去があり、知らずしてそれを繰り返している自分を責めていた。いつもお洒落でかっこよく、リーダー格のザックが見せるあまりにも痛ましい表情。

 撮影者であるビンは、いつもカメラを通して見ている。ときには自分にもカメラを向け、母親になぜ自分を見捨てたのかと問う。母とニナが重なる。

イマジネーションによって暴力の連鎖を断ち切る

「スケボーの技を習得する時、それが自分にできると信じなければ絶対にできない。」とビン・リューは言う。作品も同様にできると信じなければ完成しない。数年間に渡る膨大な撮影フィルムの中から、この三人の物語を紡ぎ出すにはとてつもない長い時間を要することは想像に難くない。作品のホームページを読むと、どうやら監督のビン・リューは出演者のキアーやザックと特に同時代を過ごしたわけではないらしい。自分のプロジェクトの被写体として出会ったようだ。脚色・編集の怜悧さに喜んで騙されたい。

「生まれ変わってもまた黒人に生まれたい。なぜなら俺たちはいつでも何かに立ち向かっているからだ。だから白人がキツいと思っているようなことでも俺たちにとってはへっちゃらなんだ。」
 
 キアーが父親に暴力を震われていたのは黒人に対して厳しい社会で息子が生きていけるようにとの愛からだった。その言葉は被虐待者としてのビンにも響く。

 父への複雑な思いから墓前に赴くことのできなかったキアーは、初めて訪れる墓所で父の墓を見つけられない。「父さんの墓を見つけることができたら今日は最高の日なのになあ」 やがて見つかった墓の前でキアーは自分でもどうしていいか分からないほど止めどないない涙を流す。

 キアーは次第に被虐待者から愛される存在へと変わっていく。そして観察者としてキアーの体験を共有するビンも連鎖的に変化していく。

 物語は愛された者として旅立っていくキアーの姿で終わる。キアーは希望の象徴としてロックフォードを出発する。

 このドキュメンタリー映画の出演者たちが、自分と同じ時代に生きていると言うことが自分を励ます。一すじの希望の光のような存在感を放つ自分にとって特別な作品だ。

投稿者: izumi noguchi

野口泉 オイリュトミスト 武蔵野美術大学映像学科卒。 2002年より舞踏家笠井叡に師事、オイリュトミーを学ぶ。オイリュトミーシューレ天使館第三期及び舞台活動専門クラスを経て、愛知万博「UZUME」(2005)「高橋悠治演奏「フーガの技法とオイリュトミー」(2008、2010)、「ハヤサスラヒメ」(2012)、「蝶たちのコロナ」(2013、2014)、「毒と劔」(2015) など様々な公演に出演。放射能からいのちを守る山梨ネットワークいのち・むすびばとの共同公演「アシタノクニ」や、仙台・月のピトゥリとの人形劇(正確には”にんぎゃうじゃうるり”)「きつねおくさまの!ごけっこん」(2014)、シュタイナー農法研究会(「種まきカレンダーを読み解く」2014)などを開催。近年はシュタイナー系の幼稚園で幼児教育に関わる。また各地でオイリュトミーワークショップを行う。オイリュトミーに関わるイベントを企画する「レムニスカート」を主宰。