熊本の人のために祈りはじめると最終的には自分が癒されている
人のために何か行為することは そのことが自分に必要だからするのだと思う
そういう意味では結局じぶんのことになる
思い浮かべたイメージ、思考内容はじぶんのうちで生き物として立ち上がってきて、じぶんじしんに確実に作用をおよぼす
そのとき距離が消えて現在しかない
祈ることにやりかたなんてないし、本当にやりかたはどんなでもいい
ただやってみないとわからない
やってみて なにが出てくるかもわからない
人は本当にふかいところでは利己的であるということはありえない
自己が同時に他者でもあるところでは
表層の議論にまどわされて人を批判の気持ちで見ないこと
