思考停止の快楽

『スーパーサイズ・ミー』

本作は、心身共に健康な男性がマクドナルドの商品だけを30日間食べ続けるとどのような変化が見れらるのかを実験したドキュメンタリー映画である。「スーパーサイズはいかがですか?」と問われたら断わらないという制約付き。

初めの数日はジャンクフードを好きなだけ食べられるというので楽しげな雰囲気だが、日を重ねるごとに様相が変わってくる。

20日目くらいになると、食べていない時は頭痛や倦怠感で体調が悪くソファでぐったりしていてかなりつらそうだ。(まさに自分が体調が悪い時もこんな感じだ)

それが高脂肪食を食べ始めた途端に体調がよくなり気分が上がってくる。

アルコール中毒の禁断症状でお酒をやめると手が震え、飲み始めるとそれがピッタリ止まるという描写があるが、それに酷似した状態だ。

誰もが気軽に購入できる高脂肪食でこのような依存の症状が顕著に現れてくるというのは衝撃的。専門家によると、メニューに使われているチーズにそのような中毒性があるとのことだが正確には語られていない。

『ワクチンの罠』

こちらはワクチンの歴史と周辺をレポートした書籍である。

作者あとがきで「この本を読んで気分を害したとしたら、それはあなたの常識から本書の内容がかけ離れているためだ。」とある。

人は自分の経験から成りたつ常識を否定された時、不快物質が分泌されるのだという。

確かに生物としての自己の存在を揺るがす事態が起きた時、それを回避するのは生命を維持していくために必要な反応だ。

本書の内容はまさにその常識を覆すものの連続であるため、私も途中嫌悪感を感じざるを得ない箇所が多々あった。

しかし反対に、そのような不快感を感じるということは自分がかなり常識的な人間であるということの証明でもある。

それが自分にとっては予期しない発見であった。

映画『女神の見えざる手』でも詳しく描かれているように、マクドナルドのような巨大ファーストフードチェーンも当然の如くロビー活動で世論を誘導しているだろう。ロビー会社が企業の印象を方向づけ株主の利益のために便宜を図るという構図。

ファーストフードは私も好きでよく利用するが、そのようなコンテキストの中に消費者として存在している自分のことを忘れがちだ。

「常識の名の下に思考停止状態に陥っていないだろうか?」と問われているような気がする二作でした。

#こうもりカレー部

自分がスパイスを挽いてカレーを作ることがくるなんて考えてもみませんでしたが、
こうもりクラブの三上さん、清水さんに影響され最近作ってみています。
(上記の写真は二人の合作カレー)

今まで知らなかったカスリメティーの香りに新しい食の世界が拡がります。

こちらはレシピ本を見ながら作った自作のチキンカレー

インドの屋台の動画を見始めると止まらない。たまらない格好良さがあります。

アーカーシャのうた〈仙台公演〉

アーカーシャのうた
鯨井巖 著『一学徒兵の北部沖縄戦回想録』〈仙台公演〉

Akashic Song
“Memoirs of a student soldier of the Northern Okinawa Battle”
by Iwao Kujirai

2019年に東京神楽坂のセッションハウスで初演の今作品を仙台で再演の運びとなりました。私にとっても思い入れのある作品です。ぜひご高覧頂けますと幸いです。

稽古をしていてこの公演は「音と言葉」が主役なのだと感じます。音と言葉は手向けでもあるのだと思います。墓前で音と言葉を手向けるように。炎と煙を手向けるように。
私は規則正しく生活し体調を整え振り付けを繰り返し稽古するのみです。ぜひご高覧下さい。語りと音楽の凄さを体験して頂きたいと思います。

身体の細胞には記憶が刻まれている。
それは遠い昔話ではなく、幾世の身体をまたぎ、いまも生きている現在形の歴史だ。
1945年、二十二歳で北部沖縄戦を体験した祖父・鯨井巖の回想録を辿っていくうちに、私の血のなかを流れる何かが、語りかけてくるのを感じた。
この血のなかを経巡っている細胞記憶。
その細胞を震わす声を、まだ決着のついていない、私たちの宿命に向けて、踊ろう。
(公演チラシより)

2021年3月7日(日)18:00開演
エル・パーク仙台スタジオホール

構成・演出・振付・ダンス
鯨井謙太郒

オイリュトミー
野口泉

語り
定方まこと

音楽監督
堅田優衣

合唱
Noema Noesis ensemble

三線
鯨井絵里加(特別出演)

ポスト・トーク

ゲスト 三浦宏之(M-laboratory主宰 / Works-M

アートディレクター)

舞台監督|高橋克也(有)舞台監督工房

照明|佐藤新(株)東北共立

衣裳|富永美夏

記録撮影|zeropoint

宣伝美術|C.R.O.W design lab.

主催 KENTARO KUJIRAI コンペイトウ
共催 月のピトゥリ

制作 mondenkind

制作協力 Works-M / zeropoint
助成 公益財団法人仙台市市民文化事業団

料金【全席指定】

一般前売3,500円

U-23割2,000円

小・中学生1,500円

当日+500円

〈ご予約・お問い合わせ〉

moendenkind

Mail:sendai.mondenkind@gmail.com

・初演|「ダンスブリッジ 2019」神楽坂セッションハウス 2019.9.21-22

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道に迷ったら

散歩の途中で道に迷うことがある。

スマートフォンで地図アプリを開くのも良いが、そんな時は人を選んでついて行くのが好きだ。

とりあえず目的を持って歩いている人は何らかの目的地に到達するはずで、その人の後を追っていけば自分も何らかのはっきりとした場所へ辿り着ける。

背広を着て書類カバンを下げた人が夕方の五時過ぎに早足で歩いていたら、行き先は駅だから安心してついて行けば良い。

駅へ着いたら背中にそっと「道案内をありがとう」と言い、別の道を行く。

こうして私は知らない土地で最寄駅への独創的な抜け道を知ったことが何度もある。

目的を持たずに歩いていると周囲の人を不安にさせてしまうかもしれないとの懸念から、何らかの目的地を目指しているようなふりをしながら歩く。
目的が途中からできることもある。


多くの人は目的地を定めた歩きをしている。
だから安心して人の後をつけて行っても大丈夫なのである。

歩きの体験

稽古のない期間に基礎体力が落ちないように散歩を初めて三ヶ月ほど経つ。初めのうちは3~4km歩くと疲れてカフェで休んでいたが、今はなんと8kmくらいは休憩なしで歩けるようになった。

人の歩く時速は平均4kmだそう。つまり1時間で4kmくらいは歩ける。それは4km歩くのに1時間かかるということ。私としては大体1日に8kmくらいは歩きたい。8kmを歩数に直すと約12,000歩。時速4kmの速さで歩いていると2時間はかかってしまう。帰りにブックオフをのぞいたり、食品の買い物なども済ませると、なんと散歩に3時間弱かかってしまう。この時間を、1日の仕事のスケジュールにちょうど良く組み込んでいくのがなかなか難しい。

一度自分の時速に挑戦してみたところ6.2kmまで出せたが、それ以上は無理だった。歩行と走行の境目は時速7kmだそうなので、その速さで歩くには競歩のフォームで歩かなければ無理だろう。

歩くのではなく、走れば時間短縮になるのだが、自分の中の歩きの体験が横溢したときに自ずと足が走り出すだろう。歩いている最中、そんな予感が時々ある。走るのはその時まで待ちたいと思う。

しばらくは長い散歩を楽しみたい。写真はそんな散歩の途中で出会ったん牛と羊!

DaBYトライアウト[ダブルビル]見ました

二作品とも人間の身体に対して別の存在を設定して、そこから人間というあり方を問い直すような作品だった。一つは棒という物質。一つは苔世界という概念。

また一部同じ舞台装置を使っていることもあり、同じコンセプトを全く違ったかたちで表しているようにも見えた。

踊ることが、自己のうちの感情を表現する自己表現ではなく、異なったフェーズから人間を照らし出す一つの方法となっているところがすごく今っぽい感じがした。

『never thought it would』では、衣装が無機的に統一されている中、ダンサーの頭部にとても強く観客の視線を集中させる演出があった。舞台装置の棒状の木材(=首から下の身体)と、有機的で個性に溢れたダンサー三名の頭部の対比に、どうしようもなく断頭をイメージさせられた。

木材にとっての頭部は、それを操作する人の意識であるとすると、こちらははじめから断頭された存在であるとも言える。

純白の衣装が点滅するライトで、正反対の黒性を帯びるようすも、ISILの動画を想起させた。人間にとって頭部とはなにかを考えさせられた。

『幽霊、他の、あるいは、あなた』は、はじめから最後までとても有機的で、しぐさのひとつひとつが慈愛に満ちた印象でずっと見ていたが、いつのまにかパフォーマンスが終わっていてあまり記憶がない。カーテンコールを見ながら、なにか素晴らしいものが地続きで自分の足もとまで降りてきたような。終演後もっとぼーっと空を見つめていたかったが、緊急事態宣言下なこともあり、そうもしていられない。

帰り道、野毛ホルモン通りの喧騒を体感したくて行ってみるも、やはり二十時で全て閉店していて寂しい限り。空中で何かが試運転中でした。

『ビューティフル・デイ』が好きすぎる

どうしても一人で見たい映画のジャンルがある。

人生においてあまりにもひどいことが起こりすぎて精神的にどうにかなりそうな人たちが過ごす日常の風景が描かれている。

ものすごく悲しく、同時にものすごく美しい。ジョニー・グリーンウッドの音楽がそのガラスのような感覚の質感を千差万別に変化させている。


幼い時に虐待を受けた記憶の中で、凶器はハンマー。トンカチ。金槌。殺し屋となった自らが選んだ凶器もハンマー。とんかち。カナヅチ。

ちなみに思い起こす人が多いのは『オールド・ボーイ』も凶器がトンカチだということだ。ハンマーは頭部を連想させる。頭部という人体において個人を表象する象徴的な部分。それの破壊。アイデンティティ、精神性も粉々にするというメタファーか。それほどに幼児期の心の傷が深いことがうかがえる。

人混みの中で、カメラを意識して避けている一般人が写ってしまっているシーンがある。監督と俳優が二人だけ、ないし少人数で雑踏の中で撮影しているのだと思われる。

自らが手を下し今にも生き絶えんとする人物と床に横になり手を握って「I’ve Never Been To Me」(「私はいろんなところに行っていろんなことをしたけど私自身には出会えなかった…」という内容の曲)を歌うシーンが異様だが、もっとも美しくもある。

極限状態のどうしようもなさがここまで簡潔に描かれているシーンがあるだろうか。


鈍色の風景

これだ。これが、

鈍色。ニビ イロ。

日本海の色。

海なのに明るくない、海にいるのに開放感がない。

それ故に光を感じる。

私にとっては苦しさと、希望を感じる風景。