痛みで眠れない…

寝込んだ。

平熱が36土台であるから38度近くまで発熱すると横になっても痛みで眠れない。頭、関節、大腿部、腎臓、、、

本を読むのも機器の画面を追うのも目が痛い。

頭が痛くない瞬間を見つけては眠り、目覚め、眠り、を繰り返す。ただ、普通に、眠れることがどれだけ幸せなことかを知る。

だいたい体調を崩す前というのは、暴飲暴食になっていることが多い。

気をつけていたつもりでも、付き合いや、状況に合わせすぎた食べ(残っているものをたべる、せっかく買ってしまったから食べる、これしかないから食べる)が続くと、何が何だかわからなくなってくる。なんだか体がスッキリしない。太る。

今回は、忙しすぎてストレスが溜まっていた時、食べもしないのに帰りに買って冷凍庫に溜めていたハーゲンダッツ。

ストレス買いをしていたリンドール。

そしてコーヒー。ひたすらコーヒー。

それらを空腹時に食べる、ということを繰り返していた。空腹時に食べればすぐ消化するんじゃね?! という見通しの浅い考えのもとに。

日常的に甘すぎるものを大量に摂っていると味覚が濃い味に慣れてしまい、感受できる味覚の幅が極端に狭まる。極端に味の濃いものを大量に摂取しすぎたときに限界を超えて体調が悪くなる。

しかし、そういう極端な味覚に走るというのにも理由があって、やはり忙しすぎる、自分に合わないタイプの仕事をこなさなければならない、など、何かしらのストレスがかかることが条件であるように思う。

それを完全に避けて生きることはできない以上、体調を壊すということは、ある程度必然の流れではある。

小から大へ、薄から濃へ、謙虚から傲慢へ、恥じらいから大胆さへ。

極に振り切れることなく中庸であることこそがむずかしい。とかく人は興奮する方向を求めがちである。

三日間寝込んだ後は、どんな薄味なものでも美味しく感じる。
ただ眠れることが嬉しい。そう感じることができることが新鮮だ。

日頃、自分が何を食べたいのか、何を食べたら自分がどうなる傾向があるのか。

そろそろわかりたいものである。

福生。Demode Heaven 隣の席で自衛隊と思われる三人組がハンバーガ二皿目いった土曜日
様式

コーヒーと映画

午後、12月公演の群舞初稽古、長くオイリュトミーをしている人たちと一緒に稽古をして動きを見るのは本当に驚異の連続。動きが興味深い。

夕方、チョコレートを衝動買いし、「コーヒー!コーヒー!」と唱えながら帰宅。すぐ豆を挽いて淹れる。最近若干中毒気味である。

夜は事務仕事をさぼり、映画を2本。『エイス・グレード』『20th センチュリー・ウーマン』。昨日見た『ヘレディタリー』と一昨日見た『ミッドサマー』が凄すぎて今日の2本がかすんだ。
特に『ヘレディタリー』は最後のくだりが色々考えさせられて何度も巻き戻してみた。この映画の中でいったい何が起こったのか?家族ドラマを装いながら人類学的な起源を語っているように見える。鮮やかに常識を覆す感性が全く新しく、『サスペリア』(2018年度版)でも思ったが、現代のホラー映画がここまできていたのだという驚き。また『ミッドサマー』の共感覚の描かれ方の二面性にも唸った。

でも一晩寝たら『20th センチュリー・ウーマン』はじわじわきた。登場人物それぞれの欠点ややらかし、孤独とささやかな幸せの描かれ方が地味すぎて、みている時は素通りしてしまうが、このくらいが実は現実に近いのかも。その分衣装や美術がすごく素敵で夢を見させてくれる。

『エイス・グレード』はアメリカの中学の話だが、校内で銃乱射事件が発生した時の避難訓練があることに驚いた。

この四作品は制作会社がA24というところなのだが話題作が多いのでできる限り全部見たい。

『angry12』red

 8月25日 劇場下見の後、久しぶりにお芝居を見に行く。『angry12』red 。出演者全て女性というのがred組。シドニー・ルメット監督の映画版『12人の怒れる男』を以前に見ていたので内容は知っていたが、やはり目の前で白熱の演技を繰り広げられると感動する。20代から4、50代(?)までの12人の女性たちの競演は見応えがあった。
 
 お芝居は人間の日常の動作が元になっているから、その役者さんの人間的な魅力がそのまま出る。舞台上の動作の全てを魅せなけらばならないのでキリがない鍛錬が必要なのだと思うと、演劇の舞台への興味は尽きない。また、通る声、通らない声、響く声、響かない声と、そのどれもが聞いていて役者さん一人一人への人間的な興味を惹かれる。

 会場のシアター風姿花伝は普段利用しない地下鉄エリアにあり、東西線落合から歩いて20分ほど。夕方行き帰りを久しぶりに3キロ程度を気分良く歩いた。帰宅途中のサラリーマンが立体交差の橋の上で朧月を見上げていた。まだ蒸し暑さの残る夜、缶ビール片手に月見をしている人を見ながら、芸術は生活と切り離せないことを改めて思う。

 

若者たち

 スーザン・バーレイ さく・え の『わすれられないおくりもの』という絵本を読んだ。
若者を見るだけで老人は元気が出るものなのだ、ということが最近分かってきた。

 若さというものはそれだけで人にエネルギーを与えることができるし、芸術作品になり得る。また商品にもなり得る。

 年齢を重ね自由になる部分と不自由になる部分がある。

 夏がそろそろ終わります。

バティック『YSee』

 8月22日 こうもりクラブの打ち合わせと稽古の後、神楽坂セッションハウスへ黒田育世さん振付演出の『YSee』を見る。
 どの作品も洒落ていて、それでいて本気度がすごくて素晴らしく美しかった。ジョアンナ・ニューサムの歌詞世界を知っていたらもっとわかるところがあったのかも。2作品目のハープがとても美しかった。
 4作品目の群舞で、一人が踊り始めてそれにつられて皆が踊りはじめる祝祭的なシーンで思わず涙が出る。自分はこういうシーンで感動するんだな、と発見した。

『田舎司祭の日記』をスクリーンで!

 6月7月と気になっていたけど稽古がつまっていて行けてなかったロベール・ブレッソン監督の『田舎司祭の日記』、まだやっていてやっと見ることができた。

日本では70年の時を経ての初劇場公開とのこと。見るのは20年ぶりくらいぶりだが当時と受けた印象が全く違った。

 新任司祭が村人にひたすら酷い目に遭う映画だと思っていたが、案外そうでもなく、司祭は自らも信仰に迷いながらもしっかりと司祭の言葉で人を救っていた。誤解を受けても弁解せず、窮地に立たされても甘んじでそれを受け入れる姿勢にやきもきしながらも深く感動。

 第二次世界大戦終結後間もない1950年に作られたこの映画の中で「神など信じない、むしろ憎しみの対象だ」という村人たちの姿勢はそのまま当時の空気感を反映しているようだ。映画が始まると、70年前の風景と人、そのみずみずしさがリアルに蘇ってくる。 
 
 2013年公開の『プリズナーズ』(監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ)という映画でも同様の”神に唾する”人物たちが描かれているが、時代の表現はどんどんヒリヒリとしたものになっている。しかしこちらの映画もかなり興味深かった。見るのは辛いが…

 胃を病み弱り果てた体で村人たちと向き合い続けた司祭の最期の言葉には本当に驚いた!

濃厚接触者になる

 先日のことだが、思いがけず濃厚接触者という立場を経験した。

 不特定多数の人が集まる打ち合わせに参加した折、その中の一人が数日後に新型コロナの感染が分かり、芋づる式に私のところにも保健所から連絡が来た。(こういう場合は自費ではなく、公費でPCR検査を受けることにる。)

会合のあった日は飲食も行われた。比較的長い時間、感染者と同じ部屋で会話をしていても濃厚感染者とはならないが、感染者と同じ皿から食べ物を食べた場合、濃厚接触者と認定されるようである。

 私が受けたPCR検査は市の保健所に午後3時〜4時までの間に検査キットを取りに行き、翌日の朝一番の唾液を採取して朝9時半〜10時までの間に窓口に提出するというものだった。係員が一人で対応してくれる。大変ストレスのかかる仕事である。
 
 私の場合は自宅から歩いて行ける場所に保健所があったため歩いて行ったが、特に電車やバスなどの公共交通機関を使わないように、とは言われなかった。具合が悪く歩けない人はどうするのだろう?

 翌日の夜7時頃、保健所から電話があり、陰性とのこと。

 仕事先の施設が私のPCR検査の結果待ちで休業してくれていたこともあり、ほっと胸を撫で下ろした。即刻連絡を入れ、翌日から事業再開されることとなり、とりあえずは一安心、ほっと胸を撫で下ろした。

 今回、濃厚接触当事者を経験することで、PCR検査について、感染症というものについて改めて勉強せざるを得なくなり、その意味では良い経験だった。
 PCR検査というもの一つとってみても、あまりにも様々な立場の人たちがいる。
ともすると見解の違いから対立を生みやすいが、反対にきめ細やかな対話が生まれる機会とすることもできる。気を付けていたとしても、おそらく今後もこういうことが増えてくるだろう。
その時々の状況の中で最善のコミュニケーションが取れるようにしていきたい。

マクドナルドの創業者とは?『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』

 「楽しい楽しいマクドナルドのお話を見終わったあとはマクドナルドに行きたくなる!」誰もがそういう作品だと思うはず。しかしまったく予想を裏切る展開が待っています。

 隠された創業秘話

 原題の”The Founder”とは「創業者」の意。1948年、モーリス・マックとリチャードのマクドナルド兄弟はファーストフード店マクドナルドを創業しました。三十秒でハンバーガーを提供するシステムを考案し、米カリフォルニア州サンバーナディーノに第一店舗を構えます。
 そんな折、調理機器のセールスマンとして全米を駆け回るレイ・クロックが現れます。レイは野心が強く、目的のためならどんなに汚いことでもポジティブシンキングという名の元にやってのける人物。彼は後に法律的な意味でのマクドナルドの「創業者」となります。マクドナルド兄弟は店名を商標登録していなかったため、クロックに店と全国フランチャイズの権利を乗っ取られてしまうのです。

効率化を計りながらも質を落とさず丁寧な商品作りに勤しんでいたマクドナルド兄弟は、利益追求型の新自由主義時代の到来に為す術がありません。

正義は勝たない?!

 正直で誠実な態度は市場原理主義に反します。正直ではいけないのです。積極的に人を騙し、自分と、自分の周囲にいる、自分にのみ富をもたらす少数のビジネスパートナーに富を分配することだけが最優先事項なのです。なるほど私たちが普段利用しているマクドナルドにこんな創業秘話があったとは。
 

 

 二人で立ち上げた夢の事業を乗っ取られ、追い詰められていくマクドナルド兄弟を見ていると本当に嫌な気持ちになります。
 しかし乗っ取った側のレイ・クロックからすれば、片田舎の小さな店を全国展開のみならず世界市場に押し上げた自分の功績は讃えられて良いものだという思いのみしかありません。実際このような態度を是とする層も多く、この映画の評価は二つに分かれています。

マクドナルド社はこの映画に出資したのか?

 どう見てもマクドナルドに資する内容ではない本作ですが、そういう作品も大スターを起用し、商業的利益を上げるパッケージ商品として世に放つことができます。
 米国にはフェアユース法というものがあり批評者が守られるという仕組みがあります。また市場経済の為せる技でもあります。充分な興行収入が見込めるのであれば製作側は利害関係を考慮した上でゴーサインを出す。だからマクドナルドの出資なしにこのような作品が存在できるのです。私たちが生活している社会そのものが今やレイ・クロックの申し子であると言えるでしょう。

 権利を守りもし剥奪しもする。これもアメリカ、それもアメリカというわけです。さまざまな意味でアメリカとは興味の尽きない国です。

 この映画の中で自分たちの夢を踏みつぶされたマクドナルド兄弟の姿。それは資本主義社会の中で徐々に行き場を失っていく私達の姿にほかなりません。世界で最も裕福な資本家26人の富は、貧困層38億人(世界の総人口の半分)の総資産額と同額だということです。今はコロナ禍中ですが、閉店する個人店を見る度にそのことがよみがえってきます。


 

『行き止まりの世界に生まれて』イマジネーションで虹をかける

原題は「minding the gap」( 段差を意識しろ)スケボーをやっているときに段差(ギャップ)に気をつけないと転んでしまう。普通に歩いている時も「段差に気をつけて!」と使われる言葉だ。

『行き止まりの世界に生まれて』(2018) は1989年生まれのビン・リュー監督のドキュメンタリー作品。米イリノイ州ロックフォードで過ごしたスケートボード仲間たちとの一時期を数年間にわたって撮影した膨大なフィルムからこの作品を作り出した。

 物語の主人公であるビンは幼少時に継父から受けた凄惨な暴力、そしてそれを見てみぬふりをしていた母へのどうしようもない怒りを心の奥に抱えていた。
 同じ年に作られたジョナ・ヒルの『mid90s ミッドナインティーズ』では分からなかったある疑問。なぜそのような悲惨な境遇にある若者がスケートボードという文化に救われるのか?それが『行き止まりの世界に生まれて』で明らかになった。
 
 この物語(ドキュメンタリー作品であるがあえて物語とする)の主人公の一人でもあり、撮影者、作品の編集者・監督でもあるビン・リュー。彼がインタヴューで語っているのは、傷つき、自己にも他者にも破壊的な感情を抑えられなくなってしまった時、スケートボードをすることでその感情を癒すことができるということだ。

「スケートボードをするときには全身全霊で意識を集中させなければコケてしまう。」

 破壊的な衝動はスケボーでハードなプレイを行うことによって昇華できるという。悲惨な環境に持っていかれそうな自分の意識を、段差(ギャップ)に集中することで、悪夢から逃れる方法がスケボーをすることなのだ。
無論その方法はスケボーに限られることではなく、その人の置かれている状況によって千差万別だ。全ての追っ手から逃れて自分自身でいられる聖域が、彼にとってはスケートボードを介するコミュニティだった。

「スケボーは動く瞑想のようなもの」とビン・リューは言う。
それは肉体から感情というクラウドを引き剥がす行為でもある。
設定するギャップは細かく精緻なものから大胆に切り立ったものまで多岐にわたっている方が良い。細部の感覚を使ってそれらに意識を向けていくうちに、いつの間にか虹のかかった場所にでている。主人公たちがスケボーで滑走するシーンにはそんな奇跡のような美しさが写っている。そしてこの映像がドキュメンタリー作品であるということの奇跡もそれ故である。

連鎖する暴力

 三人の主人公のうち、ザックは仲間内のリーダー。男らしく、憧れられる存在だが恋人のニナに暴力を振るっている。

 黒人のキアーは柔和な青年だが時々怒りに任せてスケートボードを破壊する一面がある。幼少時、父親に暴力を振るわれていたが、大人になるにつれてそれが白人社会で生き抜くための父の愛ゆえの行為であったことに気づいていく。

 ザックの恋人ニナは暴力を振るわれながらもザックからの愛を期待してしまい、ザックと対決することから逃げてしまう。

 作品はこの三人の数年間を、撮影者であるビンが追うかたちで進んでいく。やがて、母の見えないところで凄惨な暴力を振るっていたビンの継父、暴力を受け続け、誰にも助けてもらえなかった自分(ビン)自身、暴力の連鎖を断ち切ることのできる存在であったにもかかわらず、それをしなかったビンの母親の姿がこの三人のキャラクターと重なりあらわになっていく。

 自身も暴力を受けながらビンの母親は父親を庇う。「あの人が本当にひどい人だとは思えない。」継父から暴力を受け、本来自分を救ってくれるはずの母親からも見放され、ビンは自分というものが分からなくなっていく。母親はかたちだけだとしても夢見た家庭を失いたくない、孤独になりたくない。その気持ちをくむとビンはさらに何も言えなくなる。母親は子供を連れて家を出るほど強くない。ザックの恋人ニナも同様だ。

 ザックは子育てやニナとの関係から、撮影者としてのビンの視線からも逃げ続ける。しかしザックにも暴力を日常的に受けていた過去があり、知らずしてそれを繰り返している自分を責めていた。いつもお洒落でかっこよく、リーダー格のザックが見せるあまりにも痛ましい表情。

 撮影者であるビンは、いつもカメラを通して見ている。ときには自分にもカメラを向け、母親になぜ自分を見捨てたのかと問う。母とニナが重なる。

イマジネーションによって暴力の連鎖を断ち切る

「スケボーの技を習得する時、それが自分にできると信じなければ絶対にできない。」とビン・リューは言う。作品も同様にできると信じなければ完成しない。数年間に渡る膨大な撮影フィルムの中から、この三人の物語を紡ぎ出すにはとてつもない長い時間を要することは想像に難くない。作品のホームページを読むと、どうやら監督のビン・リューは出演者のキアーやザックと特に同時代を過ごしたわけではないらしい。自分のプロジェクトの被写体として出会ったようだ。脚色・編集の怜悧さに喜んで騙されたい。

「生まれ変わってもまた黒人に生まれたい。なぜなら俺たちはいつでも何かに立ち向かっているからだ。だから白人がキツいと思っているようなことでも俺たちにとってはへっちゃらなんだ。」
 
 キアーが父親に暴力を震われていたのは黒人に対して厳しい社会で息子が生きていけるようにとの愛からだった。その言葉は被虐待者としてのビンにも響く。

 父への複雑な思いから墓前に赴くことのできなかったキアーは、初めて訪れる墓所で父の墓を見つけられない。「父さんの墓を見つけることができたら今日は最高の日なのになあ」 やがて見つかった墓の前でキアーは自分でもどうしていいか分からないほど止めどないない涙を流す。

 キアーは次第に被虐待者から愛される存在へと変わっていく。そして観察者としてキアーの体験を共有するビンも連鎖的に変化していく。

 物語は愛された者として旅立っていくキアーの姿で終わる。キアーは希望の象徴としてロックフォードを出発する。

 このドキュメンタリー映画の出演者たちが、自分と同じ時代に生きていると言うことが自分を励ます。一すじの希望の光のような存在感を放つ自分にとって特別な作品だ。

『ビーチ・バム まじめに不真面目 』 ハードボイルドなタイピスト

 ハーモニー・コリンの『ビーチ・バム まじめに不真面目』が本日(5月20日)で都内上映打ち切りということをTwitterで知り、急遽予定を変更して立川まで行ってきた。予想以上に下品であけすけ描写が多かったけど、全体的に抑えた演出でハーモニー・コリンは本当に巨匠になったんだ…と同世代の者としては感慨深かった。

 主人公のムーンドッグはずっと遊んでいるけど全く遊んでいるように見えない。ここまで徹底して遊ぶというのは楽しいはずはなく、むしろ大変だと思うし、仕事(詩作)をめちゃくちゃしている。遊んでいるのか仕事をしているのか分からない。ここまでいくと人間を超えた存在なので善悪の区別も彼には適用されない。感情にも比較的しばられない、そういう意味で自由だ。マリファナを吸ったりずっとビールを飲んだりすることが自由かというとそうではない。

 ストーリーはシンプルでどんでん返しとか全くないが、こういう内容を描く場合はむしろこれでいいのだ。骨太のプロットに魅力的な役者。放火犯や偽船長の描写も衣装やメイク含めて絶妙なおかしみと神聖さ、そしてさりげなさがある。(ザック・エフロンの出演部分は豪華だ!)前作の『スプリング・ブレーカーズ』は正直どう受け止めて良いのか分からなかったけど、今作とポジ・ネガ的な繋がりを感じた。 

 マシュー・マコノヒーは出演作品数も多く全く別人の役が多いのでもっともっと見たくなるという中毒性がある。案の定マコノヒーがもっと見たくて帰宅後に『マッド』『リンカーン弁護士』を見る。私も仕事をしなければならないんだけど…

 作品中で二度繰り返される「夜中にトイレに経って下を見下ろすと、、、」の詩はピストル自殺をしたリチャード・ブローディガンの『ビューティフルな詩』 
ブローディガンがマコノヒーのムーンドッグに転生したかのような幸福感と訳のわからなさが混在していて素敵だった。あらゆる姿勢でタイプライターを打つムーンドッグの勇姿が瞼に焼きついていつまでも感動させられる。

『L.A.コンフィデンシャル』を20年振りくらいに…

『L.A.コンフィデンシャル』を20年振りくらいに見返す。初見当時、やたらおもしろいということだけが記憶に残っていたけれど、細部は全く理解できていなかった。誰が味方で誰が敵かも分かってないのに面白く見させるっていうのは相当多義的な魅力に富んだ作品なのでしょう。久しぶりに見て…これは…やはり最高に傑作でした。
 きっかけはそもそもなんとなく初めにマイケル・ペニャを見たくなり、『エンド・オブ・ウォッチ』を見てデヴィッド・エアー監督いいなーと続いて『フェイクシティ ある男のルール』これがまたとてもよく、しかも『L.A.コンフィデンシャル』に話がそっくりだと思ったら脚本ジェイムズ・エルロイ。さらに偶然「アンダーワールドU.S.A.シリーズ」第1部『アメリカン・タブロイド』上下巻2冊をなぜか各巻100円でブックオフで入手し読み終わっていたところということもあり、

ブックオフミラクル


続けて「L.A.コンフィデンシャル」を見ると主要人物設定がほぼ同じですごくわかりやすかった。主人公二人/猪突猛進タイプと冷静沈着タイプのドラマが主軸になり、タブロイド誌のトップ屋の洒脱な節回しで物語が進んでいく。そして魅力的な脇役(ロロ・トマシ…)、裏切りにつぐ裏切り、落ちていく人、はい上がる人のひきこもごも…。
「アメリカが清廉潔白だったことなんて歴史上一度もない。」『アメリカン・タブロイド』の書き出し。ジェイムズ・エルロイの筆致が冴えわたる裏の時代史。

ちょっとあれなんだろう!?

 普段あまり外食する方ではありませんが、この緊急事態宣言中、通りを歩いていてほとんどのお店が閉まっている時間帯など、寂しいです。このお店に集って楽しそうにやっていた人たちはどうしているんだろう、テキパキ働いていた板前さん・大将・店長・料理人・ホール係はどんな日常を過ごしているんだろうと想像してしまいます。

 そんな時は散歩に出るのがおすすめです。街を歩いているだけで、面白いものに出会えるから。

 先日はパンチパーマ、アイパーがかけられるという鹿の首の剥製が飾ってある理髪店を見つけました。ツイン・ピークスに出てきてもおかしくない店構えに萌え。

「アイパーとは何だろう?」という疑問に対しては埼玉県の新所沢にある理容店・床屋 ヘアスタジオガイズのブログで多彩なテクニックを見ることができました。これがアイパーなんだ!街でよく見かける髪型は「濡れパン」だったんだ!勉強になります。

 近場での散歩であれば、その日の気分に合わせて気楽にルートを決められるという利点があります。今日は何となく見晴らしが良いところ、空気が清々しいところに行きたい等。

また時間帯によっても、日没が近ければ夕焼けが素晴らしいところ、夜であれば比較的明るい道など、その時の状況に合わせてフラッとほっつき歩く、そんな気まま加減が近場散歩の良いところ。

目新しさはなくとも、自分の日常を取り巻く環境を肌で感じることができるのです。

鮭を使ったメニューが多かったキッチンベル

あそこの工事が少し進んだとか、いつも窓際にいて通りを見ているおじいさんが今日はいない、というような、小さな発見の数々によって、相対的な現在進行形の街の雰囲気を感じ取ることができるのです。さて、今日の牛はどんなかな?

草を食べ終わってのんびり

 反対にしっかり計画を立てて攻める遠出散歩。前からゆっくり歩いてみたかったところであれば、まずマップを検討してどのくらいの時間をかけてどこからどこまでの移動を目的とするかを考えます。その作業だけでもかなり楽しいものです。

限りなく透明に近いブルーな風景を激写

その土地の初心者である故に選んだ、なんの変哲もなく空気の悪い産業道路を歩いていてさえ発見の連続になること請け合いです。

ランチ時の立川を激写。

 地元の人ならば、なんらかの目的がなければまず通らないような田舎道を歩いている時など、向こうから歩いてくる地元の住人が、こちらが地元の人間でないということを諒解していることがなんとなく伝わります。

挨拶を交わすわけではないけれど、何かお互いに居心地の良いような悪いような、独特のコミュニケーションが生まれる瞬間。自分がよそものであるという新鮮な感覚。自分のテリトリーにいてはなかなか味わえないものです。

 また、思いがけないところに大きな段差があったり、周囲の雰囲気がなんとなく違う一体があったりする場所は、探究心が湧いてくるならば、帰宅後にその地の歴史や成り立ちを調べるのも楽しい時間となります。

日が落ちた後しばらく続くミラクルタイム…

 

 しかし、いくら周到にマップとルートを検討しても計画通りには決していかないのが小旅行の醍醐味。googlemapに載っていない店などいくらでもあるのです。実際行ってみなければ見つけられない小径もたくさんあります。

緊急事態宣言下でも酒類販売禁止でも「居酒屋必要ないですか〜?」という声が聞こえてきたりするように、みなさんそれぞれの状況下で生きています。

 ふらっと外に出るだけで、今まで見逃していたあなた好みの風景に出会えるかもしれません。散歩は未知との遭遇です。知覚感覚の拡張に他なりません。どんな小さな散歩も、そこから生まれる感覚や疑問はあなたを知るヒントになるはずです。考えが行き詰まった時など、自分の固定観念を打ち破る助けにもなります。

さあ、散歩に出かけてみよう!

フィトンチッドを感じる…

ハッピー・バースデイ!

交差点で、デルタ9てやつはメガネのちっちゃいやつで、一人は逃げて〜、という会話が聞こえてきて、

あー、舐達磨というおもしろい名前を持ったラップのグループは幻でなく本当に存在するんだな、とぼんやり思った。

私はその音楽を聴いたことがないが、

誰かの魂を救うような音楽はいつの時代も生まれてくる。

人間は、言葉や、音や、旋律の組み合わせで涙が出たりする。それは本当に神秘的なことだ。

そのことを分析して説明することができたとしても、

素晴らしい曲は次から次へと降ってくる。

私のバースデイにいただいた水晶

少女ムシェット

幸福に泥を投げつけるムシェット、頬を張られて黙って泣いているムシェット、カフェオレの入れ方がものすごく適当なムシェット、机の下に隠れるムシェット、クロワッサンを投げ捨てるムシェット、酒をらっぱのみしても酔えないムシェット…
ロックンロールの定義は人の数だけあると言うが、私にとっては彼女のすべてがロックンロールだ。

香りの王様

電動ブレンダーに入れる前に大体の大きさを均一にする

スパイスカレー作りにはまっています。

手前の緑のさやと黒い中身のものは、香りの王様と言われているホールのカルダモン。


レイモンド・チャンドラーの『さらば愛しき女よ』(ハヤカワ文庫)で、主人公の探偵フィリップ・マーロウが、悪徳警察署長と互いの腹の内を探り合うスリリングな会話のシーンで、お酒と共にカルダモンが登場します。


私たちは飲んだ彼はしょうずくの実をいくつか割り、私たちはお互いの眼を見つめながら、黙ってその実を噛んだ。

この「しょうずく」というのがカルダモンのことです。
8世紀頃にバイキングたちがトルコからこの実を欧米に運んだのだそうです。

お酒や食事の匂いを消すために食後にこの実を噛む習慣もあるらしく、『さらば愛しき女よ』の中では、酒のつまみというよりも匂い消しとして使われているのですね。
だって場面は昼下がりの警察署長室ですから!

カレーを作るときは電動式のブレンダーでガーッとやるのですが、こないだ少量をすりつぶしてみたら電動に比べてものすごく良い香り。


電動ブレンダーは便利だけれど、時にはゆっくり香りを立たせてみたいものです。
やはりすりこぎとすり鉢が欲しくなって来ました。

まっすぐな散歩道

散歩の途中、長くて真っ直ぐな道を見つけると嬉しい。飛び出してくる車や人を避ける必要のない人気のない道だとなお良い。気をつけることが少ないほどリラックスして歩けるからだ。

しかし最近は人通りがめっきり少なくなったような気がする。

長い道の初めから終わりまでほとんど人とすれ違うことがない。特に小さな子供の遊ぶ姿を見ることはまれだ。

今後、日本は少子高齢化が進み、さらにこの光景に拍車がかかるはずだ。空き家が増え、閑散とした街並みの中を歩くことになることは想像に難くない。

なにはともあれ、歩いていると家々からさまざまな匂い、音や会話が流れてくる。

人の生活を身近に感じることができる。もしくはかつて生活の場があったであろう空間を。

そんなことを感じながら住宅街を歩くのが好きだ。
その道の今を感じながら歩いて行きたい。

仙台駅の新幹線改札口

アーカーシャのうた〈仙台公演〉終演しました

2021年3月7日、一夜だけの『アーカーシャのうた〈仙台公演〉』が終了しました。

ご来場下さいました観客の皆様、出演者、制作、衣装、舞台、照明スタッフを始めとして、数多の時間と思いをついやし、表からは見えない仕事を受け持ってくださった皆様、誠に有難う御座いました。

撮影 富田真人

美しいもの、その瞬間、を、ほんの少しでも作り出すことができたらなら、自分でも世界に何かを寄与できたことになるのではないだろうか。

そんなふうに思ってやってきたが、しかしそれは大きな勘違いだった。ほとんど他者に助けられて今ここにいるだけなんだと思う。

この度も素晴らしく美しいものをたくさん体験させて頂きました。本当に有難う御座いました。

記憶の中に生きる

閉店のお知らせや、長いこと空き店舗となっている建物が目立つ。

コロナ渦中であるから尚更だ。

四十年、五十年と続いてきた店舗が閉まる時、自分が万物流転の世にあることを思い知る。

「この世のすべてのものは常に変化し続ける」

その言葉は私に安堵と寂寞を感じさせる。

万物流転が真理であるが故に私たちは老いを受け入れることができる。しかしまたそれを受け入れ難くも感じるのは思い出というものがあるからだ。

思い出とは経験、記憶。個人の歴史。それを切り捨てることは難しい。

老人は思い出の中に生きるという。良い思い出はそれほど大切なものであるらしい。

何が良い思い出となって将来自分の糧になるのか、それはまだわからない。

きっと自分でも思いも寄らない些細なことであるような気がする。

階段落ち

雨の日、駅の階段を降りていて、階段落ちをするスタントマンのメンタルが気になった。どのような意識で本番を迎えるのか。

メンタル以前に技術も大変なものだろう。何十段もある階段を転げ落ちるのに鼻をどうやって守るのか?痛くないように落ちる技術があるのか、痛みに耐える技術があるのか、それとも傷を直す技術が高いのだろうか。

さらに一流のスタントマンになるまでにどのような経験をするのか、キャリアを積む上でどのような段階を踏んでいくのか。

たった数段でも転げ落ちろと言われたら滝に飛び込むほどに恐ろしい。

自分の想像も及ばない人生がある。

癒しの時間

寝ている間の体がどうなっているのか。

不思議に思うことがある。

夢遊病とかの話ではなく、

時々、朝方に具合が悪くて目覚めることがある。

例えば、胃が痛いとか、頭が痛いとか。

ふと目覚めた時に、

あ、「これは今日は具合が悪いな」と思うのである。

その時に時計を見ると六時。

ふたたび気を失うように眠る。

そして次に目覚めた時には、気分も体調も最高だったりする。

それが、時計を見ると六時五分だったりするのである。

どう考えても五分の体感時間ではない。

ぐっすり三時間くらい眠ったような感覚なのである。

そんな時に思い出すのは蝶のことだ。

蝶がさなぎになる時、イモムシの体はさなぎの内側で一度どろどろに溶解するらしい。

ぐっすり眠っている五分間に、

私の内部も同様に溶解し、

カオスの状態から再構成されているような気がしている。

そんな風に想像しなければ説明できないような五分間なのである。

明日はうれしいひな祭り

たそがれ

最近の夕焼け時の散歩から。

稽古場へ向かうとき、帰るとき、うまい具合に散歩を組み込んでウォーミングアップとクールダウン。

大体夕方になる。

時期に暗くなる前のわずかな時間。

光に魅了される。

一人の時間。いろいろな風景に出会う。

季節の変化と、一日のなかの日の移り変わりは最大のエンターテイナーだ。

花粉症対策

毎年1月半ばから、早い時は12月から花粉症の症状が出始める。2020年はコロナ禍に始まりほぼ年間を通してマスクをしていたので、例年より遅く、顕著な症状が出初めたのが2月15日あたり。

目の症状

症状がひどくなると瞼の裏側が炎症を起こし、コンタクトレンズが入れられなくなるが、今年は人にすすめられた目薬でしのげている。

防腐剤無添加の一回使い切りタイプ目薬

ユーファラジア(アイブライト)、カレンデュラ、シリカ等が入っていこちらは、特に対アレルギー症状用ではないのだが、けっこう痒みがおさまる。防腐剤無添加なので、ソフトコンタクトレンズ装用時にも使える。 → Boiron, Optique 1 

こちらはエイピスが入っているのでアレルギー症状用。こちらの方が痒みがすぐおさまるが、私はBoironでも効く。こちらも保存料無添加なのでコンタクトレンズ装用時にも使用している。 → Similasan, アレルギーアイリリーフ

こちらも防腐剤無添加。1週間使い切りタイプ。普段パソコン仕事のお供ですが、花粉症シーズンにもあると心強い。 → ロートソフトワン点眼液

ロートソフトワン点眼液は最寄りのダイエーのドラッグコーナー等で手軽に入手できるが、Boiron、Similasan製品はアイハーブであらかじめ購入しておかなければ使いたい時にすぐ買えないのが難点。

あとはお風呂やシャワーで洗い流す!

その時もお気に入りの石油由来でない自然なせっけんを使うと気持ちもリラックスできて良いです。

さらに、花粉で目のまわりや顔全体が痒いときに、レスキュークリームを使います。
顔全体に塗り込むと少し暖かくなって痒みがボワーっと消えていく。人によってはしみると感じるかもしれないです。

どれも人が良いと薦めてくれたもの。使ってみたら本当に良かったのでありがたい。

今年は花粉症シーズンでも毎日マイブームの散歩をあきらめたくないので市販のアレルギー用錠剤も取り入れてみています。

花粉症の季節を乗り切りたいですね!

思考停止の快楽

『スーパーサイズ・ミー』

本作は、心身共に健康な男性がマクドナルドの商品だけを30日間食べ続けるとどのような変化が見れらるのかを実験したドキュメンタリー映画である。「スーパーサイズはいかがですか?」と問われたら断わらないという制約付き。

初めの数日はジャンクフードを好きなだけ食べられるというので楽しげな雰囲気だが、日を重ねるごとに様相が変わってくる。

20日目くらいになると、食べていない時は頭痛や倦怠感で体調が悪くソファでぐったりしていてかなりつらそうだ。(まさに自分が体調が悪い時もこんな感じだ)

それが高脂肪食を食べ始めた途端に体調がよくなり気分が上がってくる。

アルコール中毒の禁断症状でお酒をやめると手が震え、飲み始めるとそれがピッタリ止まるという描写があるが、それに酷似した状態だ。

誰もが気軽に購入できる高脂肪食でこのような依存の症状が顕著に現れてくるというのは衝撃的。専門家によると、メニューに使われているチーズにそのような中毒性があるとのことだが正確には語られていない。

『ワクチンの罠』

こちらはワクチンの歴史と周辺をレポートした書籍である。

作者あとがきで「この本を読んで気分を害したとしたら、それはあなたの常識から本書の内容がかけ離れているためだ。」とある。

人は自分の経験から成りたつ常識を否定された時、不快物質が分泌されるのだという。

確かに生物としての自己の存在を揺るがす事態が起きた時、それを回避するのは生命を維持していくために必要な反応だ。

本書の内容はまさにその常識を覆すものの連続であるため、私も途中嫌悪感を感じざるを得ない箇所が多々あった。

しかし反対に、そのような不快感を感じるということは自分がかなり常識的な人間であるということの証明でもある。

それが自分にとっては予期しない発見であった。

映画『女神の見えざる手』でも詳しく描かれているように、マクドナルドのような巨大ファーストフードチェーンも当然の如くロビー活動で世論を誘導しているだろう。ロビー会社が企業の印象を方向づけ株主の利益のために便宜を図るという構図。

ファーストフードは私も好きでよく利用するが、そのようなコンテキストの中に消費者として存在している自分のことを忘れがちだ。

「常識の名の下に思考停止状態に陥っていないだろうか?」と問われているような気がする二作でした。

#こうもりカレー部

自分がスパイスを挽いてカレーを作ることがくるなんて考えてもみませんでしたが、
こうもりクラブの三上さん、清水さんに影響され最近作ってみています。
(上記の写真は二人の合作カレー)

今まで知らなかったカスリメティーの香りに新しい食の世界が拡がります。

こちらはレシピ本を見ながら作った自作のチキンカレー

インドの屋台の動画を見始めると止まらない。たまらない格好良さがあります。

道に迷ったら

散歩の途中で道に迷うことがある。

スマートフォンで地図アプリを開くのも良いが、そんな時は人を選んでついて行くのが好きだ。

とりあえず目的を持って歩いている人は何らかの目的地に到達するはずで、その人の後を追っていけば自分も何らかのはっきりとした場所へ辿り着ける。

背広を着て書類カバンを下げた人が夕方の五時過ぎに早足で歩いていたら、行き先は駅だから安心してついて行けば良い。

駅へ着いたら背中にそっと「道案内をありがとう」と言い、別の道を行く。

こうして私は知らない土地で最寄駅への独創的な抜け道を知ったことが何度もある。

目的を持たずに歩いていると周囲の人を不安にさせてしまうかもしれないとの懸念から、何らかの目的地を目指しているようなふりをしながら歩く。
目的が途中からできることもある。


多くの人は目的地を定めた歩きをしている。
だから安心して人の後をつけて行っても大丈夫なのである。

歩きの体験

稽古のない期間に基礎体力が落ちないように散歩を初めて三ヶ月ほど経つ。初めのうちは3~4km歩くと疲れてカフェで休んでいたが、今はなんと8kmくらいは休憩なしで歩けるようになった。

人の歩く時速は平均4kmだそう。つまり1時間で4kmくらいは歩ける。それは4km歩くのに1時間かかるということ。私としては大体1日に8kmくらいは歩きたい。8kmを歩数に直すと約12,000歩。時速4kmの速さで歩いていると2時間はかかってしまう。帰りにブックオフをのぞいたり、食品の買い物なども済ませると、なんと散歩に3時間弱かかってしまう。この時間を、1日の仕事のスケジュールにちょうど良く組み込んでいくのがなかなか難しい。

一度自分の時速に挑戦してみたところ6.2kmまで出せたが、それ以上は無理だった。歩行と走行の境目は時速7kmだそうなので、その速さで歩くには競歩のフォームで歩かなければ無理だろう。

歩くのではなく、走れば時間短縮になるのだが、自分の中の歩きの体験が横溢したときに自ずと足が走り出すだろう。歩いている最中、そんな予感が時々ある。走るのはその時まで待ちたいと思う。

しばらくは長い散歩を楽しみたい。写真はそんな散歩の途中で出会ったん牛と羊!

DaBYトライアウト[ダブルビル]見ました

二作品とも人間の身体に対して別の存在を設定して、そこから人間というあり方を問い直すような作品だった。一つは棒という物質。一つは苔世界という概念。

また一部同じ舞台装置を使っていることもあり、同じコンセプトを全く違ったかたちで表しているようにも見えた。

踊ることが、自己のうちの感情を表現する自己表現ではなく、異なったフェーズから人間を照らし出す一つの方法となっているところがすごく今っぽい感じがした。

『never thought it would』では、衣装が無機的に統一されている中、ダンサーの頭部にとても強く観客の視線を集中させる演出があった。舞台装置の棒状の木材(=首から下の身体)と、有機的で個性に溢れたダンサー三名の頭部の対比に、どうしようもなく断頭をイメージさせられた。

木材にとっての頭部は、それを操作する人の意識であるとすると、こちらははじめから断頭された存在であるとも言える。

純白の衣装が点滅するライトで、正反対の黒性を帯びるようすも、ISILの動画を想起させた。人間にとって頭部とはなにかを考えさせられた。

『幽霊、他の、あるいは、あなた』は、はじめから最後までとても有機的で、しぐさのひとつひとつが慈愛に満ちた印象でずっと見ていたが、いつのまにかパフォーマンスが終わっていてあまり記憶がない。カーテンコールを見ながら、なにか素晴らしいものが地続きで自分の足もとまで降りてきたような。終演後もっとぼーっと空を見つめていたかったが、緊急事態宣言下なこともあり、そうもしていられない。

帰り道、野毛ホルモン通りの喧騒を体感したくて行ってみるも、やはり二十時で全て閉店していて寂しい限り。空中で何かが試運転中でした。

『ビューティフル・デイ』が好きすぎる

どうしても一人で見たい映画のジャンルがある。

人生においてあまりにもひどいことが起こりすぎて精神的にどうにかなりそうな人たちが過ごす日常の風景が描かれている。

ものすごく悲しく、同時にものすごく美しい。ジョニー・グリーンウッドの音楽がそのガラスのような感覚の質感を千差万別に変化させている。


幼い時に虐待を受けた記憶の中で、凶器はハンマー。トンカチ。金槌。殺し屋となった自らが選んだ凶器もハンマー。とんかち。カナヅチ。

ちなみに思い起こす人が多いのは『オールド・ボーイ』も凶器がトンカチだということだ。ハンマーは頭部を連想させる。頭部という人体において個人を表象する象徴的な部分。それの破壊。アイデンティティ、精神性も粉々にするというメタファーか。それほどに幼児期の心の傷が深いことがうかがえる。

人混みの中で、カメラを意識して避けている一般人が写ってしまっているシーンがある。監督と俳優が二人だけ、ないし少人数で雑踏の中で撮影しているのだと思われる。

自らが手を下し今にも生き絶えんとする人物と床に横になり手を握って「I’ve Never Been To Me」(「私はいろんなところに行っていろんなことをしたけど私自身には出会えなかった…」という内容の曲)を歌うシーンが異様だが、もっとも美しくもある。

極限状態のどうしようもなさがここまで簡潔に描かれているシーンがあるだろうか。