オイリュトミーについて
オイリュトミーとは1912年にドイツの思想家ルドルフ・シュタイナーによって作られた身体技法です。古代ギリシア語のeu(美しい)、rythmos(律動、リズム)に由来し、身体と宇宙の律動的調和を意味しています。オイリュトミーは、言語オイリュトミーと音楽オイリュトミーの二柱から成り立ちます。言語オイリュトミーでは、日常行っている言葉の持つ意味を聞き取り、理解することにとどまらず、言葉の持つ響きを聴き取り、さらに身体全体を使った動きに変換します。音節一音一音の響きに没入することで、その言葉の持つ意味を把握することから一歩進み、その音の持っている質をカラダ全体で表現します。オイリュトミーにおいては、言葉は単なる記号ではなく、生きたエネルギーです。例えば「光」という言葉について考えてみましょう。光」とは電磁波の一種を表すだけに過ぎないのでしょうか。いや、H-I-K-A-R-Iという音の中には「光」という存在のすべてが内包されています。そのことを明らかにするには、人間がカラダをとおして「光」と関わろうとすることが必要です。何かと関係性を持とうとすることは、意志を持ってそのもの自体の中に入って行こうとすることです。そうすることによって言葉の意味ではなく、言葉を生み出している源の力と出会うのです。
次に挙げる、シュタイナーによる「幼児のための祈りの言葉」は世界を幸う意志力に満ちあふれています。
私の頭も私の足も
神様のすがたです
私は心にも両手にも
神様のはたらきを感じます
私が口を開いて話すとき
私は神様の意志に従います
どんなものの中にも
お母様やお父様や
すべての愛する人の中にも
動物や草花や木や石の中にも
神様の姿が見えます
だから怖いものは何もありません
私の周りには愛だけがあるのです
オイリュトミーでは「わたし」という一人称に留まらず、「彼ら」「それら」などの三人称の感覚を創造しながら動きます。それは上記の言葉の中の「動物や草花や木や石」の身体感覚を創ることでもあります。
それは広義において愛の技法であるとも言えます。
愛という意志を持って周囲の世界や事物に対するならば、この世界ではもはや恐怖や怒りでさえも愛に変えることができる、という強い意志がこの言葉から感じられます。
音楽オイリュトミーにおいては、音楽の特徴である旋律やインターヴァル、和音の響きを人体形式に対応するものとしてとらえます。オイリュトミーの動きを体験することで、人間の骨格と音階が宇宙的な広がりの中で構造的な対応関係にあることが感じられます。
事物の背後にある源の力を現代における言葉は失っています。現代において言葉は意味という牢屋の中に幽閉されているようなものです。「原子力の平和利用」というように、記号的、分類的な機能の一側面を駆使すれば、たやすく人びとを操る道具にもなり得るのが言葉です。
2011年に起こった福島第一原子力発電所の爆発事故を伝える報道において、私たちがさまざまな言葉によって翻弄されたことは記憶に古くありません。「ただちに人体に影響を与える値ではない」という発言が繰り返され、情報としての言葉は利権によって白にも黒にも変化するものだということがいよいよはっきりし、細い糸で保たれていた安全神話の幻想は崩壊し、一夜にして信じるべきものが一切見いだせない世界に変わり果てました。ニュースで学者たちがまことしやかに唱える「直ちに健康を脅かす値ではありません」という言葉を信じていては自分の生命さえ危ないという状況が生じました。
しかしこのことはむしろ僥倖であると言わなければなりません。なぜなら逆説的にではありますが本来の言葉の力が復活をみることになったからです。自らの意志によって選びとった言葉と行為が即自分の生命を生み出すという、非常にシンプルなことがあらわになったのです。簡単に信じさせてくれるものを失ったことで、自らが信じるに値するものをつくり出す機会を得たのです。言葉はそれ自体が生きものです。私たちは自分の望む世界を言葉の力によって創ることができます。
今、オイリュトミーによってカラダをつくることは新しい生命を生み出すことと同意です。意味の中に閉じ込められた言葉の力を、人間の意志そのものであるカラダを通して再び外界に投げ返すことによって、言葉は意味以前の姿を開示してくれることでしょう。