スウェーデン版「ミレニアム」

10月6日

朝から幼稚園。「大人はここに針がついた靴履いてる」と足の裏を指して言うので何のことだろう?と思ったけどハイヒールのことらしい。

 

 

10月7日

スウェーデン版「ミレニアム」を全3作見る。原作、ハリウッド版、スウェーデン版と全然別の作品として楽しめた。

スウェーデンにおける女性に対する暴力の割合は世界でもトップクラスであり、この小説はそのことをテーマにした作品である、というような前書きが原作小説にあったと記憶している。

作者のスティーグ・ラーソンは15歳のときにある女性の輪姦現場に遭遇しながら何もできず逃げてしまった罪悪感からこの作品を書いたらしい。その被害者女性の名前がこの小説の主人公「リスベット」だということだ。

最近、各々まったく関連のない人々が、一人の人間の別の姿を現しているように感じることがある。例えば50代の男性に会い、その次に4歳の子どもと会い、その次に80歳の老人と会うとする。そうすると、50代の男性の中に4歳の幼児が、80歳の老人の中に50代の時の姿が、4歳の幼児の中に80歳の老人の姿が見えてくる。60代と30代の女性が横に並んでいると、一人の女性の30代と60代の姿が同時に存在しているように感じる。これは最近読んだハーラン・エリスンの作品集『死の鳥』の中の数篇の影響だと思う。

『北緯38度54分、西経77度0分13秒 ランゲルハンス島沖を漂流中』という作品では、主人公が極小さくなり自分の体内に入っていくのだが、その体内は主人公の意識の世界であるという話。『ジェフティは五つ』は、周囲の人間が成長してもジェフティだけはいつまでも五才のまま、彼のラジオからだけは昔の番組が今も流れてくる、、、。

フィクションの世界が現実に影響を与え、現実がまたフィクションの世界を生み出す。二つの世界は複雑に入り組んで存在している。それならば現実の被害者の復讐を、創作されたキャラクターがやり遂げることもあるだろう。「ミレニアム」は3巻までを上梓し、作者は亡くなっているが、近頃別の作家が引き継いで4巻が出たらしい。生み出された物語が作者の没後も続いていくということが興味深い。

 

 

 

 

 

 

夕陽のガンマン

10月4日

終日事務仕事と家事。エリンギと木綿豆腐の麻婆豆腐作る。肉なし。小さじ一杯ほどの砂糖を入れないと味が決まらない。タイカレーを作るときにも思うが砂糖の役割は大きいな。

 

10月5日

郵便物を出したり、音源編集してイタリアに送ったりで気づくと夕方。買い物に出ると台風!びしょぬれに。洗濯、料理。今日もキノコと木綿豆腐の麻婆豆腐、と玄米。気に入ると同じものを食べがち。セルジオ・レオーネ「夕陽のガンマン」見るつもりでデスクに出しておいたが時間取れず見れなかった。

 

 

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映画『ハドソン川の奇跡』

10月3日

イーストウッドの「ハドソン川の奇跡」見る。

素晴らしすぎて帰宅後、棚にあった「目撃」のDVDを見る。ご都合主義的な展開も多少あるが、やはりイーストウッドの創るキャラクターは魅力がある。

嫌われている娘の家に忍び込んで冷蔵庫の食材を補充したりする大泥棒という設定が素敵です。

「トゥルー・クライム」も見たかったのだが、こちらはケースの中のディスクが行方不明。この映画の軟派な記者役が最も好きなキャラクター。この映画はクリスマスには毎年見たくなる。

 

 

 

 

ファスビンダー映画祭2016前半

9月25日

昨日までのファスビンダー映画祭2016前半の余韻にひたった一日。『ファスビンダー、ファスビンダーを語る第2、3巻』の巻末に時系列に沿ったフィルモグラフィーがあり、鑑賞後役立ってくれる。「近親相姦を体験しないと、親と子供のあいだに権力関係が生じるんだよ。(省略)近親相姦がおこると、そうはならないだろ。子供が親と同じ高さに立てることになるからだし、そうなれば権力の問題はもうなくなる。」近親相姦に関するこんなポジティブな見解には初めて触れた。子供の頃から躁鬱病でシュタイナー学校に入れられたいきさつなど興味深い。

ファスビンダーは母親を自分の映画に出演させて対話したり、母親との関係がかなり成熟していると思う。10月の映画祭後半も是非足を運びたい。

谷合ひろみ先生一周忌

谷合ひろみ先生が亡くなってから一年。

「よみがえりの風」稽古の後、国立駅前で故人を偲び、定方まこと、鯨井謙太郒の二人と軽く飲む。

天使館3期生の私はひろみ先生とあまりお酒を飲んだ事はなかったけれど、2期生の定方さんは、よくシューレ夜間部の後に朝までみんなで飲むことも多かったらしい。

そんなエピソードを聞きながら、生前の先生に思いを馳せた夜だった。

今頃あちらの世界で新たな仕事に忙しくされていることだろう。

わたしも生きている内にできることをしなければ。

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人がバラを好むのは

 

人がバラを好むのは、

バラが、私たちの睡眠中に、

私たちの幼児期の最初の思い出を

受けとってくれるからなのです。

そのことを知らなくてもそうなのです。

 

ルドルフ・シュタイナー『遺された黒板絵』より

 

 

先日、東京調布市の神代植物園を訪れました。

折しもバラの開花時期、所狭しと咲き誇る大輪のバラ、バラ、バラ、、、

 

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連休明けとあってか家族連れの姿は見えず、ほとんどの来園客はシニア層です。

広大なバラのジャングルを背景に、人は童心に帰らざるを得ないのでしょうか。

バラの花が、その前に立つ人の幼い姿を映し出しすスクリーンの役割をしているかのようです。

咲き誇るバラを前にして、人は顔を近づけて香を嗅がずにいられないもの。

嗅覚を鋭敏にして深く息を吸い込むと、人は、何か遠くの記憶がよみがえるような、懐かしいものを見るような表情になるのです。誰もかれもがバラを介して微笑みかわす。その光景は一足先に天国に迷い込んだかのよう…。または天国シーンの映画撮影に迷い込んだか…

 

一度、花が語りかけてきたことがあります。父が亡くなり、火葬場の空きを待つ数日間、遺体とともに過ごした時のことです。

亡くなった後、2日目あたりに遺体の顔が生前以上に生き生きと輝いた時期がありました。不思議と肌がつやつやとあかるく輝いているのです。しかしそれは束の間で、物質に帰り始める「かげり」のようなものが、その頬にあらわれてくるまでにさほど時間はかかりませんでした。

そんな数日間を過ごした後、公演の稽古をしに、ある公民館へ出かけました。稽古を終えて帰るとき、ふと生けてある花の前で足を止めました。その時、花が私の中にスッと入ってきたのです。花がまるで人格をもった存在のように、私に言葉ではない何かを伝えました。私の中に花の存在が移動してきた、とでも言ったらよいのでしょうか。

そしてその時、自分の中のほとんどが「死」で占められ

ていることに気づきました。干からびかけた土に生命の水が流れ込んだような体験でした。

バラを見る時、冒頭にあげたシュタイナーの言葉が、なぞのように思い出されます。

 

 

 

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「よみがえりの風」打ち合わせ

先週の土曜日は、ピアニストの二瓶通さん、オイリュトミストの定方まこと、鯨井謙太郒と私の4人で次回公演の稽古打ち合わせ。

休日の新宿歌舞伎町の賑わいを肌に感じつつ、台湾料理「青葉」へ。地階の店舗に腰を落ち着け久しぶりの歓談。今回の公演タイトル「よみがえりの風」が、二瓶氏のつむじ風のようなオーラと重なり、身の引き締まる思い。二瓶氏はミステリアスでドラマチックな雰囲気をまといながら、牧歌的でもあるという不思議な人柄。今回どんな演奏をされるのか楽しみです。打ち合わせではさまざまなイメージがつながり、つくづく作品タイトルというのは内容をひっぱっていくものだと思わせられました。今夏は大曲に挑むことになりそうです。

公演情報

8月20日(土)福島市 本法寺

「よみがえりの風」

http://fukukotonoha.net

 

詳細が決まり次第、こちらのページでもおしらせします。チェックよろしくお願いします!

 

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ピータン粥、美味でしたご馳走。。

 

《最新公演情報》

詩人×オイリュトミスト×音楽家による 福島うぶすなフェス 「よみがえりの風」

詩と踊りと音楽によるコラボレーション 奇跡の一夜 福島からエネルギーをー。

日程 2016年8月20日(土)
会場 福島市 本法寺(〒960-8036 福島県福島市新町8−12)

出演

オイリュトミー
野口泉 鯨井謙太郒 定方まこと

詩 及川俊哉

ピアノ 二瓶通

http://fukukotonoha.net

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祈り

 

熊本の人のために祈りはじめると最終的には自分が癒されている

人のために何か行為することは そのことが自分に必要だからするのだと思う

そういう意味では結局じぶんのことになる

思い浮かべたイメージ、思考内容はじぶんのうちで生き物として立ち上がってきて、じぶんじしんに確実に作用をおよぼす

そのとき距離が消えて現在しかない

祈ることにやりかたなんてないし、本当にやりかたはどんなでもいい

ただやってみないとわからない

やってみて なにが出てくるかもわからない

人は本当にふかいところでは利己的であるということはありえない

自己が同時に他者でもあるところでは

表層の議論にまどわされて人を批判の気持ちで見ないこと

 

春に思うこと

 

あらゆる事象と対話が必要だ
言葉を持ってしても しなくても
狂人の独白を聞きとるように 桜の散るを聴き
宇宙の呼吸が四季であり
肺から押し出される言葉の一つ一つが 実りの果実であり
花弁の一つ一つさえ 意思があっての落下を落ちている
姿は変われども語られた言葉は決して消えず
流転する呼吸の中に時を超えて蘇る
それらに耳を塞ぐ鳥はいないのだから
こちらがただ耳をひらくことが必要なのだろう

 

彼らはいったい何を吊るしたのか? 映画『ヘイトフル・エイト』における首吊り

映画を見ることの醍醐味の一つは、普段じっと見ることがはばかられる他人を心ゆくまで凝視できるところ。

そして本来映画は、ただ遠くから人がこっちへ向かってくるだけでおもしろい、馬車が走ってくるだけでおもしろい、空から光が差しているだけでおもしろいものだ。こんな感覚は、映画黎明期にはもっと感じられたのだろう。当時(1895年)は機関車が走ってくる映像を見て観客は逃げ出したというのだからものすごい映像体験だったことでしょう。

さて、現在公開されている『ヘイトフル・エイト』。この作品は70mmフィルムで撮影されているそうだ。今はデジタル撮影も多いけど、往年のフィルム映画は35mm。私も学生時代、切れ端を触ったことがある。

日本では70mmフィルム上映はされていないので、私が見たのももちろんフィルムのデジタル変換上映。それでさえ、人や馬や山が写っているだけで、飽きない、というかアグレッシブに映像が語ってくる、というか、ただ、ひたすら映像がおもしろい!そんな気分が少し感じられたのだから、実際の70mmフィルムの上映を見たら、さぞかし興奮するのではないかと思う。機会あればぜひ体験してみたいものです。

さてここからネタバレがあります↓↓

 

絶対に映画を見てから読んでください!!

 

 

 

この映画の主だった登場人物、9人の役割を把握してみました。

1.の主人公が黒人で、あとは7.のメキシコ人を除くと他は一応全て白人です。一応、というのは、5.の女死刑囚は、6.7.8.の手下を内包しており、その中に7.のメキシコ人がいますので、一概には白人的存在と言えず、また女性であることもあり、グレーの存在、多くのレイヤーを持った存在であると言えます。

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物語上では、加害の方向性が複雑ですが、整理すると上記のようになるかと思います。まず、1.~4.までのチームと、5.~8までの二つのチームに大別することができます。(女死刑囚の弟は、女死刑囚とほぼ同一の役割として5.の中にまとめる)

そして次に、この関係性を陰陽図に当てはめてみたいと思います。

元極図

 

仮に1.(2.4.)の黒人賞金稼ぎ側を陰のエネルギー、3.9.の南軍派を陽のエネルギーとします。この二つが拮抗しながら物語の有限世界をかたち作っていきます。

さらに、陰の気が極まったものとしての陰中陽としての9.(バトンルージュの戦いでの黒人の大量虐殺)、陽の気が極まったものとしての陽中陰に1.(脱獄に伴う白人捕虜の大量虐殺) を置くことができるかと思います。1.の黒人賞金稼ぎと、9.の老将軍の対決は、まさに二つのカルマの極まった姿であり、作品中でも最もエモーショナルな場面でした。

そして、これら二つの拮抗するエネルギー全てを内包している、カオス的存在として5.(6.7.8.)があります。この部分は、有を含んだ無であり、無を含んだ有。善悪の判断のない世界、「混沌」です。登場人物では女死刑囚がそれを代表した存在であると言えます。

物語のラスト、瀕死の重傷を負った1.(元北軍少佐の黒人賞金稼ぎ)と、3.(元南軍くずれの略奪団の白人保安官)は、5.(女死刑囚)を吊るし上げます。

この映画の時代背景でもある1870年頃のアメリカ西部を舞台とした西部劇では、処刑の方法として、首吊り(絞首刑)がよく見られます。フランスでは、1791年に法改訂されるまで、八つ裂きの刑、車裂きの刑、絞首刑などが主な処刑法であり、それらは、苦しみを長引かせる非道な処刑法であるとされていました。その後、フランス革命時に「人道的な」処刑法として、ギロチンが誕生してからは、フランスの処刑においてはギロチンが採用されるようになりました。苦痛を味わう時間が短く、大がかりな装置が必要なギロチンは一台の制作費も莫大なものであり、当初は貴族の処刑専用のものだったようです。それに反し、装置がほぼ縄のみで事足りる首吊りは、アメリカではその後、100年あまりの時代を扱った西部劇において、象徴的に描かれています。

 

ギロチン的な死と首吊り

この映画の中で、銃による死は、より「一瞬の」死であり、特に頭部を狙ったものは「瞬殺」の部類に入ります。これはあえて分類するならば、「ギロチン的な死」であると言えます。

それに対して、首吊りは、特に高いところからの重力落下を伴わない、地面から吊り上げる方式のものは、窒息までの長い苦しみを特徴としています。

そして銃殺は血が流れることによる死であり、首吊りは呼吸を失い、言葉を失う死です。指向性としては、銃殺は下向きの流れ(血を失い、地に堕ちる)、首吊りは上向きの流れ(呼吸と、それに伴う言葉を失う、天へ登る)であると言えます。

 

女死刑囚の大きな特徴は口が悪い、というものです。その口の悪さのために、終始殴られているほどです。しかしその悪態は捉えようによっては生への祝福とも言えるものであり、その口は、劇中では、この上ない響きの歌を奏でるものでもあります。この人物は最後、その喉を塞がれ言葉を失い(言葉を天に供犠する、捧げる)ます。

 

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女死刑囚が、黒人賞金稼ぎと保安官に吊られた時、女死刑囚の右腕には、切断された首吊り人の左腕が手錠で繋がれていました。首吊り人は「リンカーンの手紙」に心から感動する、「言葉」・「理念」を信奉する存在として描かれています。(「首吊り」という処刑方法(理念)にこだわることが首吊り人という名称の由来になってもいます)

女死刑囚と首吊り人は、このような意味で、天へ連なる存在、純真なる魂として共通した存在です。

この絞首刑を扱ったラストシーンでは、一見、「女死刑囚、首吊り人」が吊られ、「黒人賞金稼ぎ、保安官」が吊るという構図が見られます。しかし、吊り上げている側の二人も瀕死の状態であり、間も無くこと切れるであろうことは間違いありません。この、吊り上げるという作業のために、明らかに自らも死への加速を早めています。では、なぜそんな面倒なことを最後にしたのか。

それは、「女死刑囚、首吊り人」を吊り上げることによって、首吊り人が最後まで信じた「理念」というものの実現へ、自分たちをも引き上げる作業ではなかったか、と思います。ここにおいて、贋作であった「リンカーンの手紙」は真作になったのだと思います。吊っている方が吊られているのか、吊られている方が吊っているのか、わからない。

もともと混沌存在であった円形(5.)から、陰なる力(1.2.4)と、陽なる力(3.9.)が派生し、その力が拮抗し極まると、新しい混沌(5′.)が生まれ、さらにその中に拮抗する陰と陽が生まれていく。しかし新しく生まれるのは、その都度、進化・深化した世界である。その、新しい理念の世界を生み出す儀式であるかのような、どこか神聖とでもいったらいいような空気の漂うラストシーンは素晴らしいものでした。

 

上村なおかさんのソロダンスを見てのメモ

炭鉱のカナリアは、人間より早く空気の変化を感じて声をあげるのか、声を上げなくなるのか、どっちかわからない

訳のわからない「かんかく」をわけのわからないまま、どうどうと告げる、そのたしかさ、ゆるぎなさ

ダンスは、ダンサーを見るものであると同時に

自己を見出すもの

踊るダンサーを千の目で見ること

イコール、自分を世界に対して千の方向から開くこと、

その行為に飛び込むこと、

自分を八つ裂きにすること、

自己の内臓を冷めた目で見ること

フェリーニのローマ(1972)の中に、ローマの地下鉄開通工事が延々と進まない光景がでてくる。数メートルごとに遺跡にぶつかってしまう為だ。

ある時、古代の壁画が色鮮やかに残る巨大な洞窟に掘り当たる。

ほぼ完璧な状態で残された古代の回廊。しかし、感嘆する研究者の前で、穿孔機の開けた穴から流れ込んだ外気が洞窟を満たすにつれ、壁画はゆっくりと砂となり崩れ去っていく。。。

たった数分間のあいだに、壁画には二千年の時が流れ、空気に触れて、止まっていたものが動く、消えていくもの、凝縮された時間、濃密さ。存在と、非存在。あること、と ないことは密度が違うだけで、おなじことではないのか 

ラストの数分間のうごきはそんな古い映画をおもった

「肉体をどんなにマシンガンでブツブツにしたとしても」

先日の甲府でのワークショップと世田谷美術館のイベントの準備で時間が取れず、購読しているメーリングリストなどをなかなか開けずにいた。

昨日、やっと3月3日付の「テネモス通信vol.37」を開いたところ、3月1日に飯島秀行先生が死去されたことを知った。

 以前の同mlにて、飯島先生が、2月の末に無料で連日講義をされるという情報は知っており、ただ事ではない空気を感じていた。聴きに行きたい気持ちでいたが調整できずに叶わなかったのが残念でならない。

2月29日まで講演をされて、3月1日に亡くなられたというのは言葉を失う。

人間の寿命は自分の意思で決めるものだ、と先生が仰っていたその通りに体現された。「自分が治ることが目的ではない、医者の意識を変えることが目的だ、と自我ではなく全我を通された」とのこと。そのような気持ちで病院に通う人がいたということに驚く。自分はどうだろう。

「この世に抹殺できるものは1ミリもない。こわすことができるのは有限性の世界だけ。肉体をどんなにマシンガンでブツブツにしたとしても無限性の世界は1ミリもこわれない。」

先生のたくさんの言葉が自分を支えてきてくれたと思う。

環境としての「おかあさん」/AIRY ZOO PROJECT「甲府動物園映画上映&ワークショップ」終了しました

AIRY ZOO PROJECT「甲府動物園映画上映&ワークショップ」

アーティスト・イン・レジデンス山梨 によるイベントの詳細なレポート↓↓

ZOO PROJECT

からだとうごきのワークショップを終えて

今回のオイリュトミーワークショップは、おやこ向けクラスとおとな向けクラスのふたつ。ちいさな子供に向けて何かを行うことは、とても大きな責任をともなうので、私にとっては難しい課題。どうしたら誠実な態度で子供という存在の前に立てるのか。その答えをさまざまな書籍や、幼児教育の先輩に求めた。最終的に、自分のなかの「幼児」的なるものに出会う、よい経験になった。

 

シュタイナーの幼児教育に関しての書籍のなかでも、『霊学の観点からの子供の教育』は非常に興味深く読んだ。シュタイナーの1906年の講演をまとめた内容。

この本をとおして、すっかり忘れていた自分の子供時代の感覚がよみがえり、大人は子供がメタモルフォーゼしたものであるという、ふつうのことを改めて思った。そして、そんな視点を心のなかに持つと、道行くさまざまな年代の人のなかに、その人の幼児の姿が垣間見える。

 

「7歳まで(歯の生え変わるまで)の子供は、完全に環境とひとつになって生きています。その意味で、子供は全体が感覚である、と言ってもいいくらいです。」同『霊学の観点からの子供の教育』より 

 

この甲府での幼児向けのオイリュトミーのために、これらの言葉に触れるうちに、ある時、おもいがけず、自分の「幼児」の時の「おかあさん」に対する愛情の感覚を再体験することになった。

今となっては、母親を、一人の歴史を持った他者として相対することができるが、「幼児」にとって「おかあさん」は自分のすべてといってもいい。「環境」の大部分とは母親のことである。

「幼児」の自分が「おかあさん」を、どんなふうに、どれほど愛していたか、環境から切り離された「個」ではなく、「環境とひとつ」である、という感覚がどんなものだったか。それを再体験できたことは自分にとって大きな出来事だった。この感覚が、自分にとっては、特に、オイリュトミーの朗唱で発声するときに、とても重要なものになった。

 

オイリュトミー版「日本国憲法を踊る」

 

今、4月28日の オイリュトミー版「日本国憲法を踊る」公演の稽古をしています。

「日本国憲法を踊る」は2013年の秋に笠井叡先生がソロダンス公演として踊られ,その後14年、15年と憲法記念日に再演されています。

私の中で2013年の初演は特別なもので、作品の内容もですが、会場の空気含めて、没時空的な体験として今も強烈な印象が残っています。終演後、「今作以上のダンス公演に出会うことは今後二度とないだろう」と、雨に煙る横浜の埠頭を眺めながら熱い涙を流した記憶があります。

さて、憲法改正の是非が叫ばれる昨今、私自身も、第二次大戦敗戦後、GHQが制定したとされる日本国憲法に対する日本人としてのアイデンティティーに少なからずゆらぎを感じる部分を否めずにいました。しかし昨晩、公演チラシが出来上がってきて、そこに記された笠井叡先生の文章を読み、そのアイデンティティー不在さを生み出している源泉がはっきりもし、自分がなぜこの時代に日本人として生まれてきているのか、ということに対しても自分なりの納得する答えを得ることができました。(この文章は非常に重要な内容だと思いますので下の方に書き起こしてあります。)

昨年末、オイリュトミー版「日本国憲法を踊る」の稽古が始まり、憲法を読めば読むほど、絶望と怒りがこみ上げてくるという経験がありました。なぜなら憲法を実際声に出して発声してみると、そこに掲げられている高い理想が一切実現されていない現状が、自分の声帯を通して身体的に迫ってきたからです。現代社会はむしろ急ピッチでこの理念と正反対の方向に転げ落ちて行っているというのに、なんなんだろう自分の発声しているこの現実味のない宇宙語のような文言は…という驚きに似た怒りと困惑。しかしその現実味のなさがむしろ「理念」としては現実味を帯び、自分の中で「存在」し始めたのです。

今現在の日本において、「自由・平等・博愛」という輝かしい理想を掲げるほど、人間の不自由さ、差別、憎しみといった影の部分が浮き彫りにされるだけであり、そんな理想を掲げることには何の実用的意味もない、誰も救われないし馬鹿げている、という立場に立つことの方が理にかなっているのかもしれません。しかし、はっきりしているのは、その高すぎると思われる理念に自分を引き上げて行かなければ今後自分自身が確実に堕落していくだろうということです。

 

さて、今回のオイリュトミー版ですが、出演者がぐっと増え、総勢22人が舞台上に会すこととなります。オイリュトミー公演の規模としても、このような機会はあまりないと思います。ぜひ会場に足をお運びいただければと思います。

 

天使館オイリュトミー・グループ公演

オイリュトミー版《日本国憲法を踊る》

□2016年4月28日(木)国分寺市立いずみホール

□前売り:2,700円 当日:3,000円

□開場19:00 開演19:30

□構成・演出/笠井叡

ご予約→info@akirakasai.com

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(チラシ裏面書き起こし)

日本国憲法の淵源を辿ろうとしますと、それはいつしか歴史とカラダの闇の中にまで入り込んでしまうほど、深いものでしょう。「自由・平等・博愛」という、人間の本性を、初めて憲法精神と結びつけたのは、モンテスキュー(1689~1755年)と言われています。モンテスキューが初めて少人数の仲間たちにこれを語って以来、その精神はやがてフランス人権宣言(1789年)や、或いはアメリカ合衆国憲法(1788年)を支えるものとなりました。しかしそこでは自由と平等は人間の権利と結びつき、高らかに謂われましたけど、「博愛」の精神は合衆国憲法にも人権宣言においても、盛り込まれませんでした。なぜなら、「無償で必要なところに必要なものをプレゼントする」という経済生活の根幹である「博愛」(完全な社会保障制度)が、もし憲法化されるならば、戦争など行うことは不可能になります。日本占領下のGHQのメンバーは、このフランスにおいても、アメリカにおいても実現されなかった、完全な理想主義精神を、この日本国憲法の中に実現しようとしました。ですからGHQが日本国憲法を作ったのではなく、それは歴史の地下水として流れている「自由・平等・博愛」の精神を、地上に引き上げるためのポンプの役割を果たしたのです。精神生活における自由と、国家・法生活における平等、経済生活における博愛は、単に社会生活の根幹であるだけでなく、人間のカラダを支える根源の法則であると言えます。今回、オイリュトミー公演において、日本国憲法を取り上げたのは、政治的な衝動からではなく、私たちの方だを支える衝動としてこの憲法を捉え、それを舞台作品として上演したいと思います。内容は、大日本帝国憲法(明治22年)から始まり、フランス人権宣言、古事記冒頭の国産みの神話、天皇による玉音放送を経て、昭和21年公布の日本国憲法にまで、カラダとコトバを通して、表出してみたい、と思います。 笠井叡

(敬称略)

甲府動物園映画上映&ワークショップ

甲府動物園映画上映&ワークショップ 

3月5日に甲府でオイリュトミーのワークショップを行います。

おやこ向けクラスとおとなクラスのふたクラス。どうぞふるってご参加ください。

 

AIRY ZOO PROJECT 「甲府動物園映画上映&ワークショップ」

3月5日(土)甲府市役所1階 市民活動室 入場無料

 

映画上映  10:00~12:30  ※全編20分55秒の映画は繰り返し再生されます。

 

からだとうごきのワークショップ 

13:00~14:00 おやこ向けクラス

14:30~16:30 大人向けクラス  (詳細は下のほうをご覧ください)

 

甲府市遊亀公園付属動物園に関するドキュメンタリー映画の上映とオイリュトミーのワークショップです。映画、ワークショップとも入場無料となりますのでふるってご参加下さい。※ワークショップは参加申し込みが必要となります。

 

下記を記載の上、お申し込みはメールでどうぞ

 airy@air-y.net

 

件名:ワークショップ申し込み

氏名:(フリガナ、漢字)

性別

ご住所

電話番号

参加ワークショップ名:おやこ向けクラスor大人向けクラス

 

 

【おやこ向けクラス】3歳から小学生

動物の童話を動いてみよう

13:00~14:00 定員20名 要申し込み

 

【大人向けクラス】

五感を拡張してみよう 

オイリュトミーワークショップ 動物と人間、ヨコの力とタテの力

14:30~16:30 定員20名 要申し込み

 

※両クラスともにピアニストの伴奏あり。

 

 

講師プロフィール 

野口泉

オイリュトミスト。2002年より舞踏家笠井叡に師事、オイリュトミーを学ぶ。オイリュトミーシューレ天使館第三期及び舞台活動専門クラスを経て、愛知万博「UZME」(2005) 高橋悠治演奏「フーガの技法とオイリュトミー」(2008、2010)、「ハヤサスラヒメ」(2012)、「蝶たちのコロナ」(2013~2015)、「毒と劔」(2015) など国内外の様々な公演に出演。放射能からいのちを守る山梨ネットワークいのち・むすびばとの共同公演「アシタノクニ」(2011)や、人形劇「きつねおくさまの!ごけっこん」、シュタイナー農法研究会(「種まきカレンダーを読み解く」)などを開催。オイリュトミーに関わるイベントを企画する「レムニスカート」を主宰。次回出演は2016年4月28日オイリュトミー版『日本国憲法を踊る』

 

甲府動物園おもて 甲府動物園うら

 

高木由利子さんの写真

写真家の高木由利子さんのオリジナルプリントを見せていただく機会があった。

とても小さな植物の器官を惑星のように拡大して撮られた『SEI』という一連のシリーズ。

白手袋をはめた写真家の手からプリントが立ち上がってくるたびに、紙に擬態した未知の生き物を見ているかのようだった。

冷たく水気があって紙より厚く角が丸い、とろりとした質感の、、、妖怪の一反もめんが一番近いかもしれない。

ギャラリーの壁にガラス越しに見る作品にはない、不思議な体験をさせていただいた。

夢の話

夢の中で眠りから目覚め、夢の中で見ていた夢を夢の中で人に話しているという夢をみた。

どうも夢の中の世界ではアイフォンで夢を画像保存できるらしく、アイフォンの写真をスクロールしながら見た夢を思い出すことができるようだ。(←そのうちこのような技術はできそうですね)

夢の夢の中で見ていた夢の内容は、他愛ない寓話的なものともとれるのだが、自分にとっては、あっ、そうなのか、という膝を打つような内容。

さらにその後、現実の世界の自分の部屋で目覚め、夢の夢の中で見ていた夢の話をしていると、あれ?もしかしてこれも夢なのでは、と思わせられ、そういうこともありえる、と妙に納得したのだった。

長谷川等伯『松林図屏風』

素晴らしい絵画は絵でありながら絵を超えている。見る人に没時空体験をもたらす。作品の前に立つだけで、顕在意識と無意識があいまいなところへワープするというか、自分の記憶と誰かの記憶が混ざってあれ???地面ちゃんとあるよね?となる。そんな作品に出会ったら悪あがきせずただその瞬間に身をゆだねればいい。どんな場所にも無限の宇宙がころがっていて、それを開くのが芸術作品。悪意なき落とし穴がそこかしこに。ダンスも映画も、あらゆる作品はそういう意味で多次元空間に開かれたスポットというか、生き物。
1月14日、長谷川等伯『松林図屏風』を見て

笠井叡 太宰治を踊る

1月10日、笠井叡 太宰治を踊る テキスト太宰治作 ヴィヨンの妻 を見ました。

一番奥の壁に映像、森山大道の写真、昭和の空気、影の世界、虚像の世界、視覚的

その手前に太宰治の作品世界、太宰作品的な着物を着た原さん、朗読、半フィクションの世界、半虚像の世界、聴覚的、ホログラム的

一番前に笠井先生、ダンス、おたけびと語り、時事的、現在進行性、実像の世界、肉体、熱病的熱感覚、

三重構造の世界が照明と映像でスイッチングされ、虚が実に実が虚にめざましく変化するのはとても不思議なファンタジックな世界。
壁に映し出された笠井先生のシルエットのダンスが実世界の笠井先生にまさる場面も多々あり…
こんなふうに映像が扱われるなんて前代未聞というか、わたしははじめて出会ったのでとても興奮した。

第九条

2016年、年明けて間もなく、4月28日に西国分寺のいずみホールで行われる『日本国憲法を踊る』公演の稽古が再開した。憲法第九条を動いてる時、思いがけず込み上げてくるものがあった。というのは、この第九条で言われている内容が、あまりにも現実と乖離しているという現状をいやというほど感じさせられるからである。

このあきらかな乖離のために、まるで泥の中の蓮の花のように、第九条が一つのイデアとして異様な輝きを持って迫ってくる。いったこれは何を源泉としてもたらされた言葉なのだろうかという疑問が湧いた。

稽古では自らが発声しているのにもかかわらず、死者からの声を聞いているような、ひたすら苦しみの中で死んでいった魂たちに動かされているような不可思議な空気が流れた。

黙読や音読だけでなく、体を動かしながら言葉を体験するオイリュトミーの稽古では、皮膚感覚や内臓感覚を通して、思考内容が、耳を通した頭部のみならず胸部、肢体系、呼吸から血液系にと複合的な強度を持ってダイレクトに響いてくる。
そんな感覚も単なる思い込みであるとも言えばそれまでだが、どのような直感にも数パーセントの真実が含まれているものだ。

第九条(抜粋)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

オイリュトミー公演「雪月花」が終了しました

2011年から4年振りとなる、ペルセパッサ・オイリュトミー団のオイリュトミー公演「雪月花」、全3回公演を無事に終えることができました。おいでくださった皆様、誠にありがとうございました。

思い返せば7月27日に谷合ひろみ先生の訃報を聞き、その夜にバッハのシャコンヌを踊ることを決めました。谷合先生が背中を押してくれなければ、こんな大曲に挑む勇気は一生出なかっただろうと思います。

先生にはオイリュトミークライトの扱い方、シュライヤーの繊細な補修の仕方、そのほか、数え切れないほどのことを教わりましたが、何よりも、人からものを教わる時の態度を学ばせていただいたと思っています。

谷合ひろみ先生、本当にありがとうございました。

1歩ずつ

オイリュトミー「蝶たちのコロナ」3ヶ国語バージョン、大盛況のうち終えることができました。いらして下さった皆さま本当にありがとうございました。

7月のローマ公演後、8月から始まった3ヶ国語の作品作り、個人的に今回はとても充実した稽古を重ねられたという実感がありました。

ローマから来たalessandraがずっと稽古に付き合い、視線を送ってくれていたからかもしれません。

集まってなぜかずっと税金の話だけしていた日もあったりしたけど。それも含めて良い稽古期間を過ごせたと思います。共演者のみなさんには今回も本当にお世話になりました。

来年の「日本国憲法を踊る」でまた再会できるのが楽しみです。

ローマから来たアレッサンドラとは帰り道が同じだったので、よく話しながら帰りました。オイリュトミーは難しいね、でもstep by step で稽古して行くしかないよね、たとえテロがあってもね、と、昨晩は打ち上げからの帰り道でした。

稽古の邪魔にならないように気をつけて見学していた、という彼女の”存在”は自分の中で大きかったことを実感した夜でした。

そして舞台を見つめて下さる方々の視線もまた。。。

さてさて、今日からは12月の「雪月花」の稽古です。今度はソロ作品、群舞と違って孤独な道のりですがstep by stepで参りたいと思います。

雨ですが、みなさまも良い夜を!

「蝶たちのコロナ」ゲネプロ2回目

「蝶たちのコロナ」日独伊3ヶ国語バージョン公演が迫っている。
9月あたりから通し稽古はやっていたが、11月に入って今日は2回目のゲネプロ。
あと2回のゲネプロと、本番が1回。

2年前、日本語版上演時には24点あったテキストを、今回は6点にしぼり、日本語、ドイツ語、イタリア語の3ヶ国語で上演する。「上演する」というのはあくまでもひとつの角度から見たかたちであり、作品をつくっていく、という視点からとらえるならば、これらのテキストや音楽作品と、他の誰よりも仲良くなろうとする行為、というのか、テキストの内容と切っても切れない深い関係を持つ、もしくは、こういう言い方もできるだろうか、そのテキストによって体をつくっていく、というかなり私的な作業になる。理解しがたいがなんとも魅力的な憧れの人になんとか近づいて少しでも同じ空気を吸いたい、という気持ちと似ているかもしれない。それを別な角度から見ると「上演する」という上から目線な表現になる。

この公演で取り上げているルドルフ・シュタイナーの黒板絵からのテキストとも長い付き合いになった。日本各地、ドイツ、イタリアと各国語で上演もしてきた。しかしおそらくこれが最後になるのではないかと思う。

シュタイナーの存在は10代の頃から書店などで書影は見知ってはいたが、はじめて読んだのは、学生時代、バイトで知り合った東大哲学科の友人が「とんでもない本がある」といって紹介してくれた時だ。確かに誰にでも受け入れられる種類の内容ではないが、これほど興味の尽きないことが書いてある本にはなかなか出会うことができない。

「蝶たちのコロナ」で取り上げるテキストも、なんともミステリアスで魅力的でいながらも親近感を感じさせる憧れの先輩のような存在だ。その存在に、あと2回のゲネプロと1回の本番で、どれだけ近づけるのか、同じ空気を吸えるのか。しかし稽古の度に相手は新しい魅力を放ってくるのである。

10月も最後の日

最近の冷え込みで体調をくずしたり、秋らしく精神的にも落ち込んだりしていたが、今日あたりからフルで動けそう。
体調がよくないときは、ゆっくりストレッチをしたり、家でご飯を炊いたりする時間を大切にするようにしていた。11月に入ると、「蝶たちのコロナ」三ヶ国語バージョンのゲネプロが入ってきて、いよいよ本番という感じ。また12月の谷合ひろみ先生追悼公演のチラシが出来上がってくる。どんな色味に仕上がってくるのか楽しみ。

エポック授業

10月23日

7月から、天使館オイリュトミーシューレで受け持っていた音楽オイリュトミーのエポック授業が終わった。テーマはリズム。

授業をするにあたり、音楽史におけるリズムの起源を遡ってみると、18世紀末に音楽の起源を考察した思想家はいたようである。

しかし、私が知りたいのは、せめて紀元前5000年ほどは昔に奏でられていた音楽についてなのである。もちろん、そんなことが載っている本はない。

結局「リズム」というものがなんなのかは、自分にとっては音楽史の問題ではなく、人間と天体、宇宙の進化にまつわる問題なのである。朝起きて夜寝る、それすら一番みぢかなリズムであるといえよう。それがわかっただけでも今回の経験は大きな収穫であった。

授業においては、現存する最古の楽譜と言われるネウマ譜から、バロック、古典派、ロマン派の作曲家までを時系列に沿って取り上げた。ピアニストの橋本さんには、音楽史の面でも多大なる協力をいただき、感謝の念に堪えない。そしてこれからも5期生のみなさんの成長を見守っていきたいと思う。

高尾山に登る

10月21日

高尾山に登った。
8年ぶりくらいだろうか。

今回初めてコースを調べ、通ったことのない6号路という道を選ぶ。
沢の音を聞きながら、入り組んだ木の根や、鋭角に砕けた岩間に感覚を預けて進むのは至福の時間だ。

何も考えなくていい。地面の起伏に身を沿わせていけばいいだけだ。

結構な難所もあるが幼稚園児が沢山いたのはシュールな光景だった。
しかし、子どもはからだも軽く、関節も柔らかいことを思えば、不思議なことではないのだろう。

むしろアスファルトの方が肩腰にくる。

谷合ひろみ先生の形見分けに

10月12日(月)
15年近くお世話になった谷合ひろみ先生の形見分けに行く。

残された沢山の楽譜や資料に触れ、厳しくもきめこまやかで繊細な先生の授業を思い出す。

私も機会あるごとに先生から教わったこれらの財産を伝えていけたらと思う。