綿毛のように

 今年のクリスマスイブは、甥っ子二人を連れ、近くの国営公園へ行きました。

たんぽぽの回転する綿毛さながら走る子供たちを見て、いいものだ、としみじみ思いました。

大切なのはセンス・オブ・ワンダー、驚ける感性。初めて出会うように、毎朝、自分と、世界と出会いたい。

楽しくて笑いが止まらない、思わず走り出してしまう、そんな子供たちを見ていると人間の性善説を信じることができます。

すべての見えない光

本当に恐ろしい描写ほどさりげないものだ。

やり切れない、恐ろしい描写を読んだあとは、本を閉じて眠りに落ちると夢でうなされる。

このような部分。

“ここでは、囚人達は、町を直撃する砲弾の音を聞くよりも前に目で見る。前回の戦争中、エティエンヌの知る砲兵たちは、双眼鏡を覗き込み、空に上がる色で、自分たちの放った砲弾による被害を見てとることができた。灰色は石。茶色は土。ピンク色は肉体。”

また、以下の部分には非常に感銘を受けた。

“彼はツォルフェアアインで見た、老いて打ちひしがれた坑夫ことを思う。椅子や木箱に腰かけたまま、何時間も動かず、死にたいと思っている男たち。そんな男たちにとって、時間とは、うんざりする余剰でしかなく、樽から水がゆっくり抜けて行くの見つめるようなものだ。だが実際には、時間とは自分の両手ですくって運んでいく輝く水たまりだ。そう彼は思う。力を振りしぼって守るべきものだ。そのために闘うべきものだ。一滴たりとも落とさないように、精一杯努力すべきだ。”

“空気は生きたすべての生命、発せられたすべての文章の書庫にして記録であり、 送信されたすべての言葉が、その内側でこだましつづけているのだとしたら。

 彼女は思う。一時間が過ぎるごとに、戦争の記憶を持つだれかが、世界から落ちて消えていく。

 わたしたちは、草になってまた立ち上がる。 花になって。歌になって。”

アンソニー・ドーアの『すべての見えない光』 より