「静かな時限爆弾」に、父が倒れた _元の原稿


クラウドファンド記事から抜粋した私の父の死に関する記述部分です。最終原稿から削った部分もブログに載せておこうと思います。

仕事現場で受け取った「静かな時限爆弾」に、父が倒れた

わたしの父は「悪性胸膜中皮腫」という病気で亡くなりました。2014年のことです。この病気は、アスベストという物質を吸い込むことによって起こります。アスベストを吸い込んでから、20年~40年の年月を経て、肺を包んでいる薄い膜に腫瘍(組織・細胞が生体内の制御に反し自律的に過剰に増殖することによってできる塊)ができるというものです。吸入してから発症までに長い期間を要することから「静かな時限爆弾」と呼ばれています。

アスベストとは

アスベストは1950年代の戦後復興期から、2001年くらいまでの約50年のあいだ、日本全国の建材などに使われた、ひじょうに使い勝手の良い、便利な鉱物です。ちょうどその頃に働き盛りだった建設業、造船業などに従事していた方たちの多くが、現在、この病気にかかっています。今後も2030年をピークにとどまらず、増えていくだろうと言われています。

現在この病気には根治する薬、治療法はないとされています。

20~40年かけて、静かに進行する、病状

 2012年に、風邪のような症状がしばらく続いたのが発端でした。肺のレントゲンを撮ったあと、すぐに精密検査をし、その結果、かなりの量の水が胸に溜まっていることがわかりました。即検査入院となり、胸に穴を開けて水を抜く、ドレナージという処置をしたところ、胸に6ℓもの水が入っていました。

その後、肺の一部を切り取る生検をした結果、「悪性中皮腫のステージⅣ」、腫瘍が片方の肺に広がっている状態でした。

地元の病院では何もできることがないため、紹介状を書いてもらい有名な大学病院へ治療計画の相談に行きました。

日本ではかなりの数の悪性胸膜中皮腫の手術を手がけてきたという先生によると、片肺(心膜・胸膜・横隔膜を含む)摘出、抗がん剤治療、放射線治療、の三つだけがこの病気に有効であるということでした。たとえこの治療を全部行えた場合でも20ヶ月生きられて、そのうちの1~2割は5年生存できるかどうか、という厳しいものでした。何の治療もしなかった場合の余命は半年から9ヶ月、早くて3ヶ月。と明快に告げられてしまいました。

先生の話をきいた父の見解はこうでした。

「15歳の時から今まで(発病時67歳)働いてきて、こうなって(病気になって)覚悟はできている。このまんま(「治療をしない」の意)の方がいいと思う。うん、それでいけるね。先生の話をきいてますますそう思った。だってそれだけやっても1~2割でしょ。(中皮腫手術の名医と言われる)先生には失礼だけどさ、抗がん剤はやらないってこと!」

「早く死のうとは思わないけどね、いずれまいっていくのはね、受け入れていいんだと思うんだけどね…」

父の人生はあんがい充実していたのかもしれないな。と、今、この言葉を聞いて思います。「生きる意志が弱い」「病気に立ち向かう勇気がない」と受け取る人もいるかもしれませんが、私はそうは思いませんでした。むしろ毎朝洗い立ての作業着をきて、がたぴしの車で電気工事のしごとに出かけていく父の姿が、ある種、神聖な光景としてよみがえってきたのです。

父の死、浮力と重力の間で

父が残してくれた大きな課題。人間のしごととは、呼吸することとは、いったいなんなのだろう?

その後、結局、父は何の科学的治療や、外科治療をせず、その後の20ヶ月を生きました。

最期はわたしの腕の中で亡くなりました。

わたしが偶然、実家の父の寝ている部屋に泊まり込んでいる日のことでした。

最後の一週間ほどはモルヒネ(鎮痛剤)を使用していたため、半分夢の中のような状態でした。今までの人生のいろいろな場面の幻覚を見ては、ときどき現実の世界に戻ってくるという、時空間があいまいになっている様子が、さまざまなうわ言から伺えました。時には車を運転していたり、子供時代の遊びをしているようでした。

その晩遅くになって、もうほとんど食べられませんでしたが、何か食べたいというので、ほんの一口お餅を食べさせました。「おいしいなぁ!」と感嘆するように言っていたのが印象に残っています。おそらくこの世で最後の食事だということが、この時の父にはわかっていたのだと思います。この世界の全食べ物に対しての賛辞のような感情が、その言葉にこもっていました。

明け方ちかくになって父が呼ぶ声で目覚めると、しっかりと目を開いてベットに半身を起こした父がいました。

そして、ほぼ二十四時間着けていた酸素吸入器のチューブを鼻からはずし、わたしに押し返すように渡してきたのです。その頃の父は、一言話すのに全生命力をふりしぼらなければならない状態だったと思いますが、「こんなものいるか。」というような内容のことを言ったのがわかりました。

それからしばらくして父は、ベッド脇に置いてあった椅子に移動しようとしました。ですが、体勢を変えようとした拍子に、はげしく呼吸困難におちいったため、わたしが両脇から体を支えるかたちになりました。この数ヶ月でかなり体重が落ちていたとはいえ、父はとても重く、わたし一人の力では支えきれずに、椅子のそばにしりもちをつく体勢になりました。これは父にとってかなりの重労働だったと思います。とても浅く短い息で、苦しい様子が全身から伝わってきました。ですがわたしは両腕で父の上半身を支えているため、呼吸器をつけてあげることもできません。かなり乱れている呼吸が整うのを、そのままの体勢で待っている時でした。

父は突然、とてつもなく長い深呼吸をしたのです。まるで朝つゆにぬれた高原の香りを胸いっぱいに吸いこむかのような、あるいは刷毛で真っすぐ天に向かって線を引くような、清浄というより他に言い表しようのない呼吸でした。そして次に息を吐いた時、戻ってきたのは父の肉体だけでした。それ以降、二度と父は息を吸い込むことはありませんでした。

わたしはぐったりと重さを増した父の体に向かって「お父さーん」と何度も叫びましたが、いよいよ「戻ってこないのだ」ということがわかり、最後の呼吸とともに抜け出た父の意識をさがし、しばらくの間、天井の方を見上げていました。呼吸というしごとをやめた父の身体は、その後、数日間のあいだに地球の重力へ、優しく引き取られていったようでした。


登と私
(写真:父とのスナップ 2013年7月)

死へ向かう「しごと」、祈りとしての「しごと」

冷戦時代の1961年、ロシアの原子力潜水艦で起きた放射能漏れ事故を描いたキャスリーン・ビグロー監督の『K-19』という映画があります。

冷却装置のひび割れからの炉心溶解を防ぐため、数人の乗組員が高濃度暴露をものともせず復旧作業を行うという凄惨な内容です。

また、ロベール・アンリコ監督の『愛する者の名において』では、ナチスによるユダヤ人迫害がいよいよ本格化してきたワルシャワのゲットーで母親と幼い兄弟をガス室に送られながら、地獄のような日常の中にあってなお、自己の青春を見出す青年の姿が描かれています。

そして『タイタニック』では、自分の命とひきかえにしても演奏をやめなかった音楽家たちがいます。

ロバート・ワイアットの『Shipbuilding』という曲では、1970年代のイギリスの造船業の街が題材になっています。不況の中、生活のために軍艦を作る造船業者たち。自分が生涯をかけてその腕を磨いてきた熟練工が、自分の作った軍艦に息子が乗って戦争に行くかもしれないことをうすうす感じながらも、家族を養うためには仕事にありつかなければならない。そのどうにも救いようのない状況が美しい旋律に乗せて語られます。(造船業というのはアスベスト職業ばく露の最も多い業種の一つです)

なぜ人は、自分が死の瀬戸際に立っていてさえ、仕事をし続けることが出来てしまうのでしょうか。人間の生とはなんだろう?死とは何のためにあるのだろう?

人は生まれてからこの世を去るまで、何らかの行為をし続ける存在です。ある一定の年齢になれば、その行為は「しごと」となります。

赤ちゃんは、この世へ生まれた瞬間から「呼吸」という生命活動をしはじめます。あらゆる生命活動は、最終的に人間を「死」へと送るものです。

「人間の行為はすべて、死へとつらなっている」そのように捉えることは、一見悲観的ではあります。しかし、その視点から日常を振り返ると、毎日のしごとや休息、毎回の食事や会話の一つ一つ、そして「呼吸すること」が、かけがえのないものに思えてきます。

人間の行為、それは死へ向かっていく、ということと同時に、途切れることなく続いていく「祈り」「しごと」でもあるのです。