彼らはいったい何を吊るしたのか? 映画『ヘイトフル・エイト』における首吊り


映画を見ることの醍醐味の一つは、普段じっと見ることがはばかられる他人を心ゆくまで凝視できるところ。

そして本来映画は、ただ遠くから人がこっちへ向かってくるだけでおもしろい、馬車が走ってくるだけでおもしろい、空から光が差しているだけでおもしろいものだ。こんな感覚は、映画黎明期にはもっと感じられたのだろう。当時(1895年)は機関車が走ってくる映像を見て観客は逃げ出したというのだからものすごい映像体験だったことでしょう。

さて、現在公開されている『ヘイトフル・エイト』。この作品は70mmフィルムで撮影されているそうだ。今はデジタル撮影も多いけど、往年のフィルム映画は35mm。私も学生時代、切れ端を触ったことがある。

日本では70mmフィルム上映はされていないので、私が見たのももちろんフィルムのデジタル変換上映。それでさえ、人や馬や山が写っているだけで、飽きない、というかアグレッシブに映像が語ってくる、というか、ただ、ひたすら映像がおもしろい!そんな気分が少し感じられたのだから、実際の70mmフィルムの上映を見たら、さぞかし興奮するのではないかと思う。機会あればぜひ体験してみたいものです。

さてここからネタバレがあります↓↓

絶対に映画を見てから読んでください!!

この映画の主だった登場人物、9人の役割を把握してみました。

1.の主人公が黒人で、あとは7.のメキシコ人を除くと他は一応全て白人です。一応、というのは、5.の女死刑囚は、6.7.8.の手下を内包しており、その中に7.のメキシコ人がいますので、一概には白人的存在と言えず、また女性であることもあり、グレーの存在、多くのレイヤーを持った存在であると言えます。

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物語上では、加害の方向性が複雑ですが、整理すると上記のようになるかと思います。まず、1.~4.までのチームと、5.~8までの二つのチームに大別することができます。(女死刑囚の弟は、女死刑囚とほぼ同一の役割として5.の中にまとめる)

そして次に、この関係性を陰陽図に当てはめてみたいと思います。

元極図

仮に1.(2.4.)の黒人賞金稼ぎ側を陰のエネルギー、3.9.の南軍派を陽のエネルギーとします。この二つが拮抗しながら物語の有限世界をかたち作っていきます。

さらに、陰の気が極まったものとしての陰中陽としての9.(バトンルージュの戦いでの黒人の大量虐殺)、陽の気が極まったものとしての陽中陰に1.(脱獄に伴う白人捕虜の大量虐殺) を置くことができるかと思います。1.の黒人賞金稼ぎと、9.の老将軍の対決は、まさに二つのカルマの極まった姿であり、作品中でも最もエモーショナルな場面でした。

そして、これら二つの拮抗するエネルギー全てを内包している、カオス的存在として5.(6.7.8.)があります。この部分は、有を含んだ無であり、無を含んだ有。善悪の判断のない世界、「混沌」です。登場人物では女死刑囚がそれを代表した存在であると言えます。

物語のラスト、瀕死の重傷を負った1.(元北軍少佐の黒人賞金稼ぎ)と、3.(元南軍くずれの略奪団の白人保安官)は、5.(女死刑囚)を吊るし上げます。

この映画の時代背景でもある1870年頃のアメリカ西部を舞台とした西部劇では、処刑の方法として、首吊り(絞首刑)がよく見られます。フランスでは、1791年に法改訂されるまで、八つ裂きの刑、車裂きの刑、絞首刑などが主な処刑法であり、それらは、苦しみを長引かせる非道な処刑法であるとされていました。その後、フランス革命時に「人道的な」処刑法として、ギロチンが誕生してからは、フランスの処刑においてはギロチンが採用されるようになりました。苦痛を味わう時間が短く、大がかりな装置が必要なギロチンは一台の制作費も莫大なものであり、当初は貴族の処刑専用のものだったようです。それに反し、装置がほぼ縄のみで事足りる首吊りは、アメリカではその後、100年あまりの時代を扱った西部劇において、象徴的に描かれています。

ギロチン的な死と首吊り

この映画の中で、銃による死は、より「一瞬の」死であり、特に頭部を狙ったものは「瞬殺」の部類に入ります。これはあえて分類するならば、「ギロチン的な死」であると言えます。

それに対して、首吊りは、特に高いところからの重力落下を伴わない、地面から吊り上げる方式のものは、窒息までの長い苦しみを特徴としています。

そして銃殺は血が流れることによる死であり、首吊りは呼吸を失い、言葉を失う死です。指向性としては、銃殺は下向きの流れ(血を失い、地に堕ちる)、首吊りは上向きの流れ(呼吸と、それに伴う言葉を失う、天へ登る)であると言えます。

女死刑囚の大きな特徴は口が悪い、というものです。その口の悪さのために、終始殴られているほどです。しかしその悪態は捉えようによっては生への祝福とも言えるものであり、その口は、劇中では、この上ない響きの歌を奏でるものでもあります。この人物は最後、その喉を塞がれ言葉を失い(言葉を天に供犠する、捧げる)ます。

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女死刑囚が、黒人賞金稼ぎと保安官に吊られた時、女死刑囚の右腕には、切断された首吊り人の左腕が手錠で繋がれていました。首吊り人は「リンカーンの手紙」に心から感動する、「言葉」・「理念」を信奉する存在として描かれています。(「首吊り」という処刑方法(理念)にこだわることが首吊り人という名称の由来になってもいます)

女死刑囚と首吊り人は、このような意味で、天へ連なる存在、純真なる魂として共通した存在です。

この絞首刑を扱ったラストシーンでは、一見、「女死刑囚、首吊り人」が吊られ、「黒人賞金稼ぎ、保安官」が吊るという構図が見られます。しかし、吊り上げている側の二人も瀕死の状態であり、間も無くこと切れるであろうことは間違いありません。この、吊り上げるという作業のために、明らかに自らも死への加速を早めています。では、なぜそんな面倒なことを最後にしたのか。

それは、「女死刑囚、首吊り人」を吊り上げることによって、首吊り人が最後まで信じた「理念」というものの実現へ、自分たちをも引き上げる作業ではなかったか、と思います。ここにおいて、贋作であった「リンカーンの手紙」は真作になったのだと思います。吊っている方が吊られているのか、吊られている方が吊っているのか、わからない。

もともと混沌存在であった円形(5.)から、陰なる力(1.2.4)と、陽なる力(3.9.)が派生し、その力が拮抗し極まると、新しい混沌(5′.)が生まれ、さらにその中に拮抗する陰と陽が生まれていく。しかし新しく生まれるのは、その都度、進化・深化した世界である。その、新しい理念の世界を生み出す儀式であるかのような、どこか神聖とでもいったらいいような空気の漂うラストシーンは素晴らしいものでした。