徘徊することで得られる感覚とは

引っ越してから、いろんな時間帯に近所を徘徊する楽しみが増えた。


自分がこの地形の中のどこに位置しているのか。


この道はどこにつながっているのか。


自分の身体が地図上でおおよそどこに存在しているのか。


自分の中のマップが増えていく度ごとに喜びがある。

犬が散歩の時にマーキングをすることに似ているのかもしれない。
自分の身体が拡張する、空間に浸透する、根付く、とも言えるような感触がある。

なるべく距離を移動したいので自転車で行くことが多い。

まず大通りを可能な限り進んでみておおよその距離感をつかむ。そして来た道を引き返す中で、気になった横道に逸れてみる。その後は気分に任せてゆっくり流す。

意図的に迷ってみるのもおすすめだ。

自転車で住宅街をゆっくり何度も行ったり来たりしていると、やはり怪しいと思われてしまうのが心配だ。なるべく意識だけは近所の者を装う。

しかしじっくり通りや家々を見て、感じたい、というあらがい難い欲求もある。

その為にサングラスをかける。余計に怪しくなってしまう。

なるべく首を動かさないようにしつつ、サングラスの下の目はカメレオンのように動かして見る。

幼児は周囲の世界との距離感覚を培うために舌でなんでもかんでも舐めまわすというが、私の行動もある意味、それと同様である。

だから人をじろじろ見るのが憚られる感覚というのもあるのだろう。

認知症の症状としても引っ越などで新しい環境に馴染めない場合、徘徊が起こるという。

自己認識と周囲の環境への共感は大きな関わりを持っている。

その感覚が拡大すればするほど、人間として成熟することができるのかもしれない。